かつてのそして現在の、理不尽な戦争暴力による犠牲者すべての方々に深く哀悼の意を表します。




2001ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1582001

 森の黙に星座集いて敗戦忌

                           酒井弘司

た、八月十五日がめぐってきた。もう五十六回目だもの、「また」はふっと吐息のように出てきた実感である。今年は、同世代の酒井弘司(1938-)に登場してもらおう。十代の作品だ。図式を描いてしまえば、「森の黙」とは生き残って地上にある我らの沈黙であり、集う天の「星座」は亡くなられた方々を象徴している。すなわち、生きて残った者に死んだ者が寄り添うかたちで、今日という日が記録されている。普通は逆だ。肩に手を置くのは生き残った者であるべきだが、句では死者のほうから集まってきてくれている。理不尽に殺された人たちが、どうしてそんなに優しくあることができるのか……。この思いから、生き残った者たちにじわりと湧き上がってくるのは、やはり戦争への哀しみと憎しみである。そして作者は、今日という日を「敗戦忌」と呼ぶ。この呼称は、日本の歴史にとっての重要なポイントだ。公的には「終戦記念日」と言うようだが、私は作者とともに「敗戦忌」ないしは「敗戦日」と言いつづけてきた。「終戦」にはちがいなくとも、敗れた事実を曖昧にしてはならない。その意味で、むしろこの句の眼目は、十代の若者が公的なまやかしに抗して「敗戦忌」と言い切っているところにこそあるのだと、私は思いたい。そう思うのが、死者に対するせめてもの礼節である。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)


August 1482001

 稲稔りゆつくり曇る山の国

                           廣瀬直人

者は山梨県東八代郡に生まれ、現在も同地に暮らす。したがって山梨の山河に取材した句が多いが、掲句もその一句だ。季語は「稲」で秋。なによりも私は、一見地味な「ゆつくり」の措辞に心惹かれた。一面に広がった田圃に稔りつつある稲の生長も「ゆつくり」なら、空の曇りようも「ゆつくり」である。「ゆつくり」は単に速度が遅いという意味ではなく、自然の動きが充実しながらしかるべき方向に移ってゆく様子を捉えている。自然が、自然のままに満ち足りて発酵していく時間の経過を述べている。「山の国」ならではの感慨で、都会でもむろん「ゆつくり」曇ることはあるけれど、それに照応する自然がないので、単に速度が遅いという意味にしかなり得ない。子供の頃の私の田舎でも、時はこのように「ゆつくり」と流れていたのだろう。そして、おそらくは今も……。しかし当時の私には、充実に通じる「ゆつくり」が理解できなかったのだ。ただそれを、退屈な時間としか受容できなかったのである。今日あたりの故郷には、村を出ていった友人たちも多く帰省しているだろう。そして、この「ゆつくり」の自然の恵みを存分に味わっているにちがいない。帰りたかったな。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


August 1382001

 生身魂七十と申し達者なり

                           正岡子規

治期の七十歳は、人生五十年くらいが普通だったので、相当な高齢だ。いまで言えば、九十歳くらいのイメージだったのではなかろうか。しかも達者だというのだから、めでたいことである。まこと「生身魂(いきみたま)」と崇めるにふさわしい。盆は故人の霊を供養するだけでなく、生きている年長者に礼をつくす日でもあった。いわば「敬老の日」の昔版だ。孫引きだが、物の本に「この世に父母もたる人は、生身玉(いきみたま)とて祝ひはべり。また、さなくても、蓮の飯・刺鯖など相贈るわざ、よのつねのことなり」(『増山の弁』寛文三年)とある。このようにして祝う対象になる長寿の人、ないしは祝いの行事そのものを指して「生身魂」と言った。しかし、いつの間にか、この風習が「よのつねのこと」でなくなったのは何故だろう。それとも、寺門の内側ではなお生きている行事なのだろうか。新井盛治に「病む母に盆殺生の鮎突けり」がある。殺生をしてはならない盆ではあるが、「病む母」のためにあえて禁を犯している。作者にしてみれば、生きている者こそ大事なのだ。何も後ろめたく思う必要はない。この姿勢は「生身魂」の考えに通じているのだから。(清水哲男)




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