昼の高校野球と夜のプロ野球。スピードで夜が勝っているのは明白だが、何故か夜はかったるい。




2001ソスN8ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0982001

 車窓より西瓜手送り旅たのし

                           市川公吐子

西瓜は、元来が残暑厳しき候に最盛期を迎えたようだ。したがって、秋の季語。新暦七月頃に見られる現代の西瓜は、早稲種ということになる。それが証拠に、江戸期などの古い歳時記を見ると、何の解説もなく「秋之部」に入っている。現代歳時記では、そうもいかないのか、何故「秋」なのかの言い訳が書いてある。あっ、こうここに書くことも言い訳だった(笑)。掲句は駅頭の光景。見送りに来てくれた人が、お土産にと大きな西瓜を車窓から差し入れてくれているのだ。その一つ一つを、窓際の人から奥の人へと「手送り」で渡している。「大きいなあ」「落とすなよ」「また来るからね」など、にこにこしながらの声が飛び交う。まさに「旅たのし」ではないか。このときに「旅たのし」に他の表現を当てる必要はない。ストレートに「たのし」だからこそ、情景が生きるのだ。そして、この「たのし」をもたらしたのは、西瓜をもらったこともそうだが、より「たのし」く感じたのは「手送り」という協働行為そのものによっているだろう。「手送り」は日常的な行為のようであって、実は普段はあまり経験することがない。気心の通じる仲間が何人か集まった旅などで、はじめて成立する行為なのだ。いいなあ、みんなでわいわいと旅に出たくなった。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0882001

 淋しさに飯を食ふ也秋の風

                           小林一茶

番目の妻を離別した後の文政八年(1825年)の句。男やもめの「淋しさ」だ。昔の男は自分で飯を炊いたりはしないから(炊けないから)、飯屋に行って食うのである。いまどきの定食屋みたいな店だろう。そこにあるのは、何か。もちろん飯なのだが、飯以上に期待して出かけるのは、ごく普通の人々とのさりげない交感の存在だろう。いつもの時間にいつもの人たちが寄ってきて、ただ飯を食うだけの束の間の時間が、世間並みの暮らしから外れてしまった男には安らぎのそれとなる。ホッとできる時間なのだ。晩婚だった一茶は、ごく当たり前の家庭に憧れていたろうから、やっと掴んだように思えた普通の暮らしが思うようにいかなかったことは、相当にこたえていたはずだ。だったら飯ではなくて、「酒を飲む也(なり)」が自然だろうと思うのは、まだ生活の素人である。普通の生活をしている人恋しさで出かける先が酒場だとすれば、その人はまだ若年か、よほど仕事などへの意欲があふれている人にちがいない。酒場にあるのは、どんなに静かな店であろうとも、客たちが非日常を楽しむ時空間なのだから、普通の生活のにおいなどは希薄だ。そんなことは百も承知の一茶としては、したがって飯を食いに行くしかないことになる。「秋の風」が身にしみる。男性読者諸兄よ、明日は我が身かもしれませんぞ。(清水哲男)


August 0782001

 少女期やラムネの瓶に舌吸はれ

                           高倉亜矢子

学校高学年か、中学校低学年くらいの少女を連想した。ちょっと悪戯っぽい感じの女の子だ。ラムネを飲むのにもいささか飽きてきて、玉を舌先で触って遊んでいるうちに、何かの拍子でひゅっと「吸はれ」てしまった。それだけのことでしかないが、それだけのことだから「少女期」を象徴する出来事として受け止められるのだ。私の観察するところでは、少年に比べると、案外に少女はおっちょこちょいである。無鉄砲は少年の属性のようなものだが、それとは違い、少女は少年には考えられないようなアクシデントに見舞われたりする。本質的に、おおらかなのかもしれない。少年だったら、まずこんなドジは踏まないだろう。句は、そのあたりのことを言っている。ただ昔の少年として気になったのは、実際にこういうことが起きるという理屈がわからないところだ。ラムネ瓶のなかでは飲料水の発するガス圧が玉を押し上げる仕掛けだから、この場合はほとんど飲んでしまった後で、逆に瓶の中が外気圧に押されていた故に「吸はれ」てしまったのだろうか。……というふうに、とかく少年(男)は理屈っぽい。理屈っぽくない少女だった作者としては、「だって、ホントにそうなっちゃったんだもん」と答えるのだろうな。作者は1971年生まれ。なかなかに良いセンス。「香水に水の匂ひのありにけり」。この句も素敵だ。期待したい。「俳句」(2001年8月号)所載。(清水哲男)




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