ソスソスソスqソスソスソスソスqソスソス句

August 0782001

 少女期やラムネの瓶に舌吸はれ

                           高倉亜矢子

学校高学年か、中学校低学年くらいの少女を連想した。ちょっと悪戯っぽい感じの女の子だ。ラムネを飲むのにもいささか飽きてきて、玉を舌先で触って遊んでいるうちに、何かの拍子でひゅっと「吸はれ」てしまった。それだけのことでしかないが、それだけのことだから「少女期」を象徴する出来事として受け止められるのだ。私の観察するところでは、少年に比べると、案外に少女はおっちょこちょいである。無鉄砲は少年の属性のようなものだが、それとは違い、少女は少年には考えられないようなアクシデントに見舞われたりする。本質的に、おおらかなのかもしれない。少年だったら、まずこんなドジは踏まないだろう。句は、そのあたりのことを言っている。ただ昔の少年として気になったのは、実際にこういうことが起きるという理屈がわからないところだ。ラムネ瓶のなかでは飲料水の発するガス圧が玉を押し上げる仕掛けだから、この場合はほとんど飲んでしまった後で、逆に瓶の中が外気圧に押されていた故に「吸はれ」てしまったのだろうか。……というふうに、とかく少年(男)は理屈っぽい。理屈っぽくない少女だった作者としては、「だって、ホントにそうなっちゃったんだもん」と答えるのだろうな。作者は1971年生まれ。なかなかに良いセンス。「香水に水の匂ひのありにけり」。この句も素敵だ。期待したい。「俳句」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


September 0492001

 白桃に入れし刃先の種を割る

                           橋本多佳子

は、食べるのに厄介な果物だ。間違っても丸ごとそのまんまで、見合いの席などには出してはいけない。上手に皮を剥くのも一苦労だし、丸かじりというよりも、いわば「丸吸い」で食べるのがいちばんだと思うが、食べやすいように四半分くらいに切ってからという人もいる。当然にナイフを入れることになるわけだが、ここでも面倒なことには、大きくて堅い「種」がある。もちろん、誰だってそのことを知っているから、刃が当たらないように用心して切りにかかる。用心して刃先を入れると、普通は「白桃の刃を吸ふて静かなる」(高倉亜矢子)のような感触を得る。用心した結果の「静かなる」なのだ。掲句の作者もまた、同じように用心しながらナイフを入れたのだけれど、コツンと「種」に刃先が当たって、自然にはじけそうになっていた「種」が、かすかな衝撃で小気味よく割れてしまったのだった。別に大事件というわけではないし、もとより「種」を割るべく仕組んだ結果でもないのに、なんだか良い心持ちになってしまった。掲句を読んでまっさきにユニークに感じたのは、このようにちっぽけな出来事とも言えない出来事を詠める「俳人」の、そして「俳句」様式自体の神経の独特な伸ばし方である。こういうのを「俳句らしい俳句」って言うんだろうな、きっと……。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)




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