戦争を思い出す月。空襲が日常だった子供のころ。野球は好きだが、甲子園のサイレンは大嫌いだ。




2001ソスN8ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0182001

 晝顔やとちらの露も間にあハす

                           横井也有

みは「ひるがおやどちらのつゆもまにあわず」。、一見、頓智問答かクイズみたいな句だ。「どちらの露」の「どちら」とは何と何を指しているのだろうか。作者の生きた江戸期の人なら、すぐにわかったのだろうか。答えは「朝顔」と「夕顔」である。この答えさえ思いつけば、後はすらりと解ける。朝顔と夕顔には、天の恵みともいうべき「露」が与えられるが、炎天下に咲く「昼顔」には与えられない。すなわち「間にあハす」である。同じ季節に同じような花を咲かせるというのに、なんと不憫な昼顔であることよと同情し、かつそのけなげさを讚えている。もう少し深読みをしておけば、句は人生を「朝顔」「昼顔」「夕顔」の三期に分け、いわば働き盛りを「昼顔」期にあてているのかもしれない。露置く朝や夕に比べて、露にうるおう余裕もなく、がむしゃらに働かざるを得ない朱夏の候を、けなげな「昼顔」に象徴させている気配が感じられなくもない。いずれにしても、この謎掛けのような句法は、江戸期に特有のものだろう。現に近代以降、この種の遊び心はほとんどすたれてしまっている。近代人の糞真面目が、俳諧のおおらかさや馬鹿ばかしさの「良い味」を無視しつづけた結果である。芭蕉記念館蔵本『俳諧百一集』所載。(清水哲男)


July 3172001

 夏木立一とかたまりに桶狭間

                           高野素十

念なことに現地を知らないので、掲句が「桶狭間(おけはざま)」の光景をうまく言い当てているのかどうかはわからない。桶狭間といえば、古戦場として名高い。1560年(永禄3年)5月19日、尾張桶狭間(現・愛知県豊明市)における今川義元と織田信長の壮絶な戦いがあった土地だ。この戦(いくさ)に勝利したことで、信長には決定的な弾みがついた。そんな歴史を持つ土地を訪ねてみると、想像していたよりもずうっと狭い感じがしたので、「一とかたまり」と言ったのだろう。往時と変わらぬはずの「夏木立」を遠望しながら、作者は武将たちの運命を決した舞台のあまりの小ささに感じ入っている。「一とかたまり」が、よく効いている。ところで、素十の句集をパラパラ繰ってみるだけでわかることだが、彼は「一」という数字を多用した俳人だ。句作にあたって「先ず一木一草一鳥一虫を正確に見ること」を心がけたというが、逆に多面的重層的な森羅万象を「一」に帰すことにも熱心だった。彼の「まつすぐに一を引くなる夏書かな」のように、たしかに「一」は気持ちの良い数字ではある。むろん、掲句も気持ちがよろしい。素十の「一」を考えていると、素十句にかぎらず、俳句は具体的に「一」という数字を使わないまでも、つまるところは「一」を目指す文芸のように思えてくる。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)


July 3072001

 日と月と音なく廻る走馬燈

                           岩淵喜代子

絵仕掛けの回り灯籠。今流に言えば科学玩具だが、物の本によると「中国から伝来したもので、江戸時代初期、宗教的色彩の濃いものからしだいに変化して、元文年間(1736〜41)以後、遊戯的な技巧や工夫が加えられ、夏の納涼玩具として発達した」のだという。作者は「音なく迴る走馬燈」を見ている。その影絵に「日と月」が具体的にあったのかどうかは別にして、「音なく迴る」のは「日と月」も同じであることに思いが至っている。すなわち、この宇宙全体が一種の走馬燈みたいなものではないか、と。この時間も、走馬燈といっしょに「日と月」も廻っているのだ。そのことに思いが至って、また目の前の走馬燈を見つめ直すと、単なる涼感以上の感慨がわいてくるようだ。通いあう句に、角川源義の「走馬灯おろかに七曜めぐりくる」がある。これはこれで捨てがたいが、時空間的に大きく張った掲句は、走馬燈の玩具性をはるかに越えており、そこに作者の手柄が感じられる。影絵のよさは、仮想現実(バーチャル・リアリティ)を目指さないところだ。あくまでも、影でしかないのである。仮想にとどまるのだ。だから、想像力の活躍する余地が大きい。両手を使ってたわむれに障子に写し出すイヌやキツネの影に、目を輝かす子はいまでもたくさんいるにちがいない。『蛍袋に灯をともす』(2000)所収。(清水哲男)




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