昨日の「どうぞ」はランドセルの「女の子」。「いいよ」と言ったら怪訝そうな顔でMacintosh HD:Apple エクストラ:Applications (Mac OS 9):Internet Explorer 5 フォルダ:Internet Explorer坐り直してた。




2001ソスN7ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2972001

 炎天下おなじ家から人が出る

                           永末恵子

らぎらと灼けつくような日盛りの通りだ。人影もない。すると、とある家から「人」が出てきた。そして「おなじ家」から、また人が出てきた。ただそれだけのことなのだが、作者はなんだか不意をつかれたような気持ちになっている。ひとりだけならば、さほど何も感じなかったろう。つづいてもうひとり出てきたことで、この「炎天下」に何用かと、思わずも出てきた「人」たちにではなく、その「家」のほうに、不思議なものでも見るような視線を走らせたにちがいない。つまり、その「家」の事情に関心が動いたのだ。すなわち、いま止むを得ずに「炎天下」にいる自分の事情以上の事情があるような気がしてしまったのである。私には、句の全景が白日夢のように写る。あるいは、無声映画の露出オーバーの一シーンでも見ているような感じだ。真っ白な道のむこうに建つ真っ黒な家から、真っ黒な人影がぽろりぽろりと出てくる無音の世界……。炎天、ここに極まれり。作者の出発は自由詩だったと聞くが、自由詩では書けない世界をちゃんと知っている人ならではの「俳句」だとも思った。『留守』(1994)所収。(清水哲男)


July 2872001

 弟子となるなら炎帝の高弟に

                           能村登四郎

い暑いと逃げ回るのにも、疲れる。かといって、しょせん凡人である。かの禅僧快川が、火をかけられ端坐焼死しようとする際に発したという「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境地には至りえない。ならば、猛暑の上を行ってやろう。すなわち、いっそのこと「炎帝(えんてい)」の弟子になってやれ、それも下っ端ではなくて「高弟」になるんだ。「高弟」になって、我とわが身を真っ赤な火の玉にして燃えつづけてやるんだ……。暑さには暑さを、目には目を。猛暑酷暑に立ち向かう気概にあふれていて、気持ちの良い句だ。しかし、よほど身体の調子がよいときでないと、この発想は生まれてこないだろう。「炎帝」は夏をつかさどる神、またはその神としての太陽のことで、れっきとした夏の季語である。同じ作者に「露骨言葉に男いきいき熱帯夜」があり、こちらは立ち向かうというのではなく、やり過ごす知恵とでも言うべきか。どうせよく眠れない「熱帯夜」なのだからと、酒盛りをおっぱじめ、飲むほどに酔うほどに卑猥な言葉を連発しあっている男たち。不眠に悶々とするよりは、かくのごとくに「いきいき」できるのだからして、「露骨言葉」もなんのそのなのである。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)


July 2772001

 冷奴つまらぬ賭に勝ちにけり

                           中村伸郎

機嫌である。「つまらぬ賭(かけ)」とは何だろうか。知る由もないが、結論はわかりきっているのに、あえて「賭」をいどんできた奴に応えたところが、やっぱりそうだったということだろう。つまり、結論はわかっていたのだが、それを言いたくもないのに口に出さされた不機嫌なのである。想像するに、たとえば賭の対象は女性で、彼女の艶聞の真偽にからんでいた……とか。「つまらぬ賭」の相手は目の前にいて、「今夜は俺のおごりだ」などとほざいている。負けたほうがニヤニヤする賭事も、よくある。だから「冷奴」も美味くはない。なんとなく、ぐじゃぐじゃとつついている。そんな気分のありようが、よく伝わる句だ。ところで、作者は文学座の役者で小津映画にもよく出ていた、あの「中村伸郎」だろうか。人違いかもしれないけれど、だとすれば、この冷奴の食べ方も、より鮮やかに目に浮かんでくる。小津映画のなかで、彼はもっとも無感動に物を食べる演技の名人だった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[まったくの余談…]ご本人だとしたら、二十年ほど前のスタジオで、一度だけお話をうかがったことがある。話の中身はすっかり忘れてしまったが、とにかくとても煙草の好きな方だった。晩年は医者に禁じられたそうだが、苦しかったにちがいない。お通夜の席で、みんなで線香代わりに煙草を喫って偲んだという新聞記事が出た。どうせ助からないのなら、存分に喫わせてあげればよかったのに。実に「つまらぬ」医者もいたものだと、義憤を感じたことを覚えている。




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます