帰宅して飲む麦酒。1本目よりも2本目からが美味い。最初はサイダーでも同じことかな。損な性分。




2001ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672001

 処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け

                           竹下しづの女

い女を叱りつけている。「処女」は「おとめ」。夏痩せでしんどいなどと言うけれど、まだ「二十歳(はたち)」じゃないの。若いんだから、たかが夏痩せくらいでグズグズ言わずに、ちゅんと仕事をしなさいっ。作者は、杉田久女や長谷川かな女と同世代の「ホトトギス」同人。はやくに夫を亡くし、五人の子女を女手ひとつで育て上げた。句集を読んでいると、その労苦のほどがしのばれる。同じころに「夏痩の肩に喰ひ込む負児紐」があり、夏痩せの辛さは我とわが身でわかっているのだ。そこを耐えて踏み越えていかなければと、若い女のわがままに我慢がならなかったのだろう。「男まさり」と言われたが、昭和初期の社会で男に伍して生きていくためには、めそめそなどしていられない。天性の気性の強さがあったとはいえ、そうした生活の条件がさらに強さを磨き上げたのである。夫亡き後は、職業婦人として図書館に勤めた。「汗臭き鈍の男の群に伍す」と、心の内で「鈍(のろ)の男」どもに怒りつづける日々であった。ところで、ダイエット流行の今日、掲句の痩せたことを喜ばぬ女性の態度に不審を覚えるむきもあるかもしれない。が、「夏痩」は食欲不振の栄養不良から来るもので、ほとんど病気状態だから、辛いことは辛かったのだ。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


July 2572001

 土用うなぎ冷戦に要るエネルギー

                           かとうさきこ

手が男であれ女であれ、昔から「冷戦」は苦手だ。パパッと言い合ったほうが、よほど楽である。しかし、止むをえずに「冷戦」に入ることもある。私から言わせれば、みんな相手のせいなのだ。不意に「むっ」と押し黙ったまま、物を言わなくなる。このタイプは、男よりも圧倒的に女に多い。こうなったらお手上げで、何を言っても無駄である。勝手にしろと、喧嘩のテーマを外れたところでも腹が立ち、しかし声をあらげるのも無駄だと知っているので、こちらも黙り込んでしまう。ここから、立派な「冷戦」となる。「冷戦」の嫌なところは、いつまでも尾を引くところ。その間に、ああでもあろうかこうでもあろうかと相手の心を推し量ることにもなり、なるほど「エネルギー」が要ること、要ること。この句を読んで感心させられたのは、「冷戦」中の作者がちゃっかり(失礼っ)と「土用うなぎ」に便乗してエネルギーを補強しているところだ。事「冷戦」に関しては、私に限らず、男にはまずこんな知恵はまわらないだろうと思う。たとえフィクションであろうとも、だ。したがって、掲句に「冷戦」得意の女性一般(気に障ったら、ごめんなさい)の強さの秘密を垣間みたような……。面白い発想だなあと、男としては、さっきから感心しっぱなしなのである。「俳句界」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


July 2472001

 重荷つり上げんと裸体ぶら下る

                           竹中 宏

語は「裸」で夏。これぞ「裸」のなかの「裸」だ。もとより全裸ではないのだけれど、まったき裸の凄みを感じる。真夏の工事現場あたりでの嘱目吟かもしれないし、そうではないかもしれない。そんなことはどうでもよいと思われるほどに、この「裸体」には説得力がある。底力がある。人間、いくら生きていても、裸でこのように渾身の力と体重をかけて何かをする機会は、めったにあるものではない。句の男は、それを当たり前のようにやっている。当人はもちろん、見ている側にも、いや句を読んでいるだけの側にも力が入る。単純でわかりやすい構図だけに、よりいっそうの力が入るのだ。こういう句を読むと、炎暑に立ち向かうという気概がわいてくる。小手先でごちゃごちゃクレーンの装置などをいじっているよりも、この男の単純な力技の発揮のほうが、よほど清冽な真夏の過ごし方だと思えてしまう。はたして、この「重荷」はつり上がったろうか。なかなかつり上がらずに、男はぶざまにも宙で脚をバタバタさせることになるのかもしれない。それも、また良し。作者の役割は「ぶら下がる」ときの気合いだけを伝えることなのだから。作者の竹中宏は、十代からの草田男門である。「翔臨」(第41号・2001年6月30日発行)所載。(清水哲男)




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