IT講習会はどこもWindowsだと怒っていたら杉並区立科学教育センターではMacでも教えていた。




2001ソスN7ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0872001

 線香花火果てし意中の火玉かな

                           櫛原希伊子

の命は「意中の火玉」にある。真っ赤な火玉が徐々にふくらんでいきパッパッと火花を散らすわけだが、あまり大きくなりすぎるとぽたりと落ちてしまうし、小さいままだと火花もか細く終わってしまう。そのふくらんでいく様子を見ているうちに、なるほど火玉は「意中」としか言いようのない状態に入ってくる。このスリルも、「線香花火」の魅力の一つだろう。句の「火玉」は、大きく熟れたところで惜しくも「果て」てしまった(自註)。ところで、花火師だった父に言わせると、大きな打ち上げ花火よりも「線香花火」のほうが面白いのだそうだ。参考までに、父が某百科事典に書いた解説の引用を。「黒色火薬系の薬剤は燃えてもガスが少なく、薬の6ないし7割が燃えかすとして残る。これには多量の硫化カリウムが含まれていて、丸く縮んで火球をつくり、その表面が空気中の酸素と反応して緩やかに燃える性質がある。木炭の性質は線香花火の原料として重要である。燃えやすい炭(松炭、桐(きり)炭など)に少量の燃えにくい炭(油煙や松煙など)を混合して用いられる。前者は薬剤の初期の燃焼に必要であり、後者は火球の中に残って、爆発的に火球の表面から松葉火花を発生する」〈清水武夫〉。父が面白いと言ったのは、前者と後者の配合が手作業ではなかなか巧くできないところにもありそうだ。つまり、結局は火をつけてみないと効果はわからない……。だから、あらゆる「意中」のものと同様に、この玩具花火も「意中」から大きく外れることが多いということ。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


July 0772001

 牽牛織女文字間違へてそよぎをり

                           川崎展宏

京あたりでは、七夕を陽暦で行う。梅雨のさなかで「牽牛織女」もあったものではないが、明治の陽暦採用時に、せめて東京人だけでもと新暦に義理を立てた名残りだろうか。季語としては秋に分類されている。ところで、掲句は皮肉を詠んでいるのではない。短冊の誤字にもまた、風情があってよろしい。「一所懸命書いたんだろうになあ」と、作者は微笑している。短冊の文字の句で有名なのは、石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」だが、療養所での七夕祭ゆえに「惜命」の二文字が胸に突き刺さるようだ。さて、たまたま掲げた二句ともに文字にこだわっているけれど、これはたまたまの暗合ではなく必然性がある。七夕の由来は複雑でここに書ききれないが、行事的な一つの意味は文字や裁縫の上達を願うところにあった。私が小学校で習った七夕も、この意味合いが強かった。早朝に里芋の葉にたまった露を集めて登校し、その水で墨をすって文字を書いたので、よく覚えている。書く文字もそれこそ「牽牛織女」であり「天の川」であり、小さい子は「おほしさま」だつた。いまのように願い事は書かなかった。もっとも書けと言われても、敗戦後の混乱期だったから、願いを思いついたかどうか。せいぜいが「白い飯を腹いっぱい食いたい」などと、そんなところだったろう。『蔦の葉』(1973)所収。(清水哲男)


July 0672001

 出荷箱数多の金魚ぶつからず

                           渡辺倫子

西で頑張っている総合誌「俳句文芸」のコンクールで、竹中宏が特選に選んだ句。金魚の句は数あれど、出荷時の金魚を詠んだ句は珍しい。作者は奈良市在住とあるから、日本最大の産地である大和郡山市あたりでの実見だろう。私は見たことがないので、この「出荷箱」がどんな形状をしているものなのか、見当もつかない。しかし選評で竹中さんも述べているように、そのような知識がないと観賞できない句ではない。とにかく、積み重ねられては次々に運ばれていく「箱」には「数多(あまた)の金魚」が揺れている。小さな金魚にしてみれば、とてつもない大揺れのなかにある。しかも、揺れは不規則きわまりないのだ。ここで、作者の目が光った。そんな大揺れのなかにあっても、一匹一匹がお互いに、決してぶつかりあうことはない。人間だったら「ぶつからず」どころか、パニックを起こして阿鼻叫喚の世界となるところだ。「この世の重力や時間とは別な物理の支配する世界が、こんなところにあった?」(竹中評)という発見が素晴らしい。「出荷箱」とゴツゴツと句を起こしている技法も、現場の雰囲気を伝えて効果的だ。「俳句文芸」(2001年7月号)所載。(清水哲男)




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