探さないでもそのへんにあるのが団扇。探すとなかなか見つからないのも団扇。単なる整理下手。




2001ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0672001

 出荷箱数多の金魚ぶつからず

                           渡辺倫子

西で頑張っている総合誌「俳句文芸」のコンクールで、竹中宏が特選に選んだ句。金魚の句は数あれど、出荷時の金魚を詠んだ句は珍しい。作者は奈良市在住とあるから、日本最大の産地である大和郡山市あたりでの実見だろう。私は見たことがないので、この「出荷箱」がどんな形状をしているものなのか、見当もつかない。しかし選評で竹中さんも述べているように、そのような知識がないと観賞できない句ではない。とにかく、積み重ねられては次々に運ばれていく「箱」には「数多(あまた)の金魚」が揺れている。小さな金魚にしてみれば、とてつもない大揺れのなかにある。しかも、揺れは不規則きわまりないのだ。ここで、作者の目が光った。そんな大揺れのなかにあっても、一匹一匹がお互いに、決してぶつかりあうことはない。人間だったら「ぶつからず」どころか、パニックを起こして阿鼻叫喚の世界となるところだ。「この世の重力や時間とは別な物理の支配する世界が、こんなところにあった?」(竹中評)という発見が素晴らしい。「出荷箱」とゴツゴツと句を起こしている技法も、現場の雰囲気を伝えて効果的だ。「俳句文芸」(2001年7月号)所載。(清水哲男)


July 0572001

 焼酎のただただ憎し父酔へば

                           菖蒲あや

だんは温和でも、ひとたび飲むと人が変わったようになる。陽気になるのならばまだしも、妙に怒りっぽくなったり暴力的になったりする人がいる。作者の父親も、いわゆる酒癖が悪かったのだ。彼が飲みはじめると、家族みんなで小さくなっていたのだろう。でも、そんなになるのは、決して父親のせいではなく、あくまでも「焼酎(しょうちゅう)」がいけないのだと……。憎しみの対象を「ただただ」焼酎に向けさせているのは、父親への愛情である。そんなになるまで飲むお父さん「も」悪いとは感じていても、それを言いたくない「いじらしさ」。一般論で言えば甘い認識だろうが、家族関係は「一般論」では括れない。一般的に酒乱なら酒乱だけを抽出して何かを言うことはできても、それは作者の「いじらしさ」の出所とはついに無縁であるだろう。ただ、こういう論法自体を、それこそ一般的には酒飲みの自己弁護と言うらしい(笑)。ところで「焼酎」は夏の季語だ。何故か。江戸期の図解入り百科事典『和漢三才図会』に「気味はなはだ辛烈にして、つかへを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」とある。おまけに安価。つまり、手っ取り早い暑気払いには絶好の飲み物というわけである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0472001

 端居してたゞ居る父の恐ろしき

                           高野素十

語は「端居(はしい)」で、夏。家の中の暑さを避け、縁先や窓辺で(つまり「家の端」で)涼気を求めくつろぐこと。夕方や夜のことが多い。いまや冷房装置の普及でその必要もなくなったので、すっかり「端居」という言葉も聞かなくなった。掲句は、作者が血清学研究のためのドイツ留学より戻ってからの作品なので、二十代も後半の一句だろう。子供時代の回想ととれなくもないけれど、なにせ作者は「写生の鬼」だった。生涯を通じて、回想句はほとんどない。そんな年齢でもまだ父親が「恐ろしき」と感じる心は、しかし素十ひとりのそれではなく、当時の人の大半が共有していたものだと思う。というよりも、昔から私くらいの年代にいたるまで、大人になってもなお父親の気配をうかがう性(さが)が身についてしまっているのだ。「ただ居る」という措辞が、子供のおびえの深度をよく言い当てており、ぎくりとさせられた。くつろいでいようが、父親が「ただ居る」だけで、家中がピリピリしていたことを思い出した。ちなみに、素十にあっては珍しい回想句に「麦を打つ頃あり母はなつかしき」がある。掲句を知った後では、「母は」の「は」に注目せざるを得ない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます