日々、どれくらいの俳句が生まれているのだろうか。良い句は、向こうからすうっと寄ってくる。




2001ソスN7ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0572001

 焼酎のただただ憎し父酔へば

                           菖蒲あや

だんは温和でも、ひとたび飲むと人が変わったようになる。陽気になるのならばまだしも、妙に怒りっぽくなったり暴力的になったりする人がいる。作者の父親も、いわゆる酒癖が悪かったのだ。彼が飲みはじめると、家族みんなで小さくなっていたのだろう。でも、そんなになるのは、決して父親のせいではなく、あくまでも「焼酎(しょうちゅう)」がいけないのだと……。憎しみの対象を「ただただ」焼酎に向けさせているのは、父親への愛情である。そんなになるまで飲むお父さん「も」悪いとは感じていても、それを言いたくない「いじらしさ」。一般論で言えば甘い認識だろうが、家族関係は「一般論」では括れない。一般的に酒乱なら酒乱だけを抽出して何かを言うことはできても、それは作者の「いじらしさ」の出所とはついに無縁であるだろう。ただ、こういう論法自体を、それこそ一般的には酒飲みの自己弁護と言うらしい(笑)。ところで「焼酎」は夏の季語だ。何故か。江戸期の図解入り百科事典『和漢三才図会』に「気味はなはだ辛烈にして、つかへを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」とある。おまけに安価。つまり、手っ取り早い暑気払いには絶好の飲み物というわけである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0472001

 端居してたゞ居る父の恐ろしき

                           高野素十

語は「端居(はしい)」で、夏。家の中の暑さを避け、縁先や窓辺で(つまり「家の端」で)涼気を求めくつろぐこと。夕方や夜のことが多い。いまや冷房装置の普及でその必要もなくなったので、すっかり「端居」という言葉も聞かなくなった。掲句は、作者が血清学研究のためのドイツ留学より戻ってからの作品なので、二十代も後半の一句だろう。子供時代の回想ととれなくもないけれど、なにせ作者は「写生の鬼」だった。生涯を通じて、回想句はほとんどない。そんな年齢でもまだ父親が「恐ろしき」と感じる心は、しかし素十ひとりのそれではなく、当時の人の大半が共有していたものだと思う。というよりも、昔から私くらいの年代にいたるまで、大人になってもなお父親の気配をうかがう性(さが)が身についてしまっているのだ。「ただ居る」という措辞が、子供のおびえの深度をよく言い当てており、ぎくりとさせられた。くつろいでいようが、父親が「ただ居る」だけで、家中がピリピリしていたことを思い出した。ちなみに、素十にあっては珍しい回想句に「麦を打つ頃あり母はなつかしき」がある。掲句を知った後では、「母は」の「は」に注目せざるを得ない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


July 0372001

 枇杷すする母は手首に輪ゴムはめ

                           沢村和子

い物をすると、何でもかでも包装紙の上から「輪ゴム」をかけて渡す時代があった。文庫本でも二冊以上買うと、ぱちんと輪ゴムでとめてくれた。そうした輪ゴムは捨てないでとっておき、再利用したものである。ただ粗悪品が多かったので、せっかくとっておいても、使うときには切れてしまうこともしばしばだった。ちなみに、掲句は1956年(昭和三十一年)の作。母親が買い物の折りに、出回りはじめた枇杷(びわ)を買ってきてくれたのだろう。作者といっしょにおやつとして食べているのだが、母親の手首にはいま外したばかりの輪ゴムがとりあえず「はめ」られており、後でしかるべき場所に保管するのだ。枇杷を「食べる」のではなく「すする」という表現とともに、ゆっくりとおやつを味わうヒマもない母親の姿が活写されている。極端に言えば、中腰でのおやつ時という印象。よく働いた昔の母親像を、これだけの道具立てで描いてみせた作者の腕前は相当なものである。この句から十六年後に「風鈴や湖わたりくる母菩薩」の一句がある。合わせて読むと、ひどく切ない。そしてその三年後には「藤房の死にとどきつつさがりけり」と……。私の知るかぎり、これが沢村和子最後の作品である。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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