ここを書いてから職場へ。が、だんだん職場から戻ってからここへ、になってきた。綱渡りサイト也。




2001ソスN6ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2962001

 裸子も古めかしくてこの辺り

                           京極杞陽

語は「裸子(はだかご)」で、夏。1964年(昭和三十九年)、東京オリンピックの年の作品だ。一般の家庭にはまだ冷房が普及していなかったので、ちっちゃな子はみんな、それ以前と同じように、裸(同然)で夏の昼間を過ごしたものだ。ああ、懐かしき「金太郎の腹掛け」よ。掲句が面白いのは、子供の裸の姿にも「古めかしく」感じられる何かがあると、ストレートに披歴しているところだ。よく言う「田舎くささ」に通じる感覚だろう。「この辺り」がどのあたりなのかは知らないけれど、その土地の「古めかしさ」を「裸子」にまで見て取り、しかも句に仕立て上げた感覚は鋭い。リアリストの目が光っている。誤解のないように述べておけば、むろん作者はここで微笑しているのである。大人の(男の)社会では、しばしば比喩的に「裸のつきあい」などと言って、お互いの衣装や殻を脱ぎ捨てたコミュニケーションこそ最上と位置づけたりする。だが、無心に近い「裸子」にして、既にこのような古さがあるわけだ。裸になってもなお脱げない根源的な意匠の存在を指し示している意味でも、この句は考えるに値するだろう。いわば無心のままにまとってしまった意匠は、ついに脱ぐことができない。私はこの条件を、人間の脱しきれぬそれとしてカウントせざるを得ないできた。『花の日に』(1971)所収。(清水哲男)


June 2862001

 辻があり輓馬と螢入れかはる

                           柿本多映

い荷を積んだ車を、あえぎながら馬がひいていく。その「輓馬(ばんば)」が向こうの四つ辻にようやく姿を消すと、かわって軽やかにもふうわりと一匹の「螢」が出現した。静かだが、なかなかにドラマチックな交代劇である。「輓馬」だから、サラブレッドのようにスタイルがよいわけでもないし、しかも汗みどろだ。見ているだけで暑苦しくなる馬と、見ているだけで涼感を覚える蛍との「入れかは」りである。どこかから、涼しい風が吹いてくるような感じがする。そして、句の眼目はここに止まらないだろう。「輓馬」が見えているのだから、あたりはまだそんなに暗くはない。ところが「入れかはる」蛍の光が見えるとなれば、あたりはそんなに明るくはない。というよりも、もはや真っ暗闇に近い。すなわち、この交代劇は「辻」をいわば時間軸に見立てた昼と夜のそれなのでもあった。このことを踏まえて深読みすれば、私たちの日々の生活の「疲弊」と「安息」の「入れかは」るときを、抒情的に暗示してみせた句だとも読める。『花石』(1995)所収。(清水哲男)


June 2762001

 梅雨と書き陳者と書き嫌になりぬ

                           永作火童

礼的な手紙か、商用の挨拶文だろうか。とにかく、紋切り型の手紙を書く必要が生じた。そこで「梅雨の候時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」などと時候の挨拶を書き、さて「陳者(のぶれば)」と本題に入るところで「嫌に」なってしまつた。よくあることだが、梅雨期の鬱陶しさも手伝うので、「梅雨」と書くだけでも「嫌に」なった気持ちがよく出ている。紋切り型の手紙文は親しくもない相手にも、欠礼することなく何事かを伝えられて便利だが、個人的な感情や感覚の披歴ができないので、おのずから書き手の存在は希薄になる。受け取るほうも同じことで、まず隅から隅まで丹念に読むことはしない。お互いにそれがわかっていても、なおこの種の手紙が必要なのは、自己を希薄にしての人間関係が実は社会生活の大元を占めているからだろう。手紙の作法はもちろん、その他の礼儀作法にしても、希薄な人間関係を希薄なままに保つ知恵の一つと言ってもよいと思う。そんな表面的な礼儀など知るものかと、放り出すことも可能だ。簡単だ。だが、世の希薄な人間関係は、放り出した人間にも常に希薄な関係を迫ってくる。どのようにか。ここで我が若き日の苦い体験を思い出して、それこそ「陳者」と披露したいところだが、私もだんだん「嫌に」なってきたので、これにて失礼。早々頓首。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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