折り返し点が見えてきました。実況アナはいないけど(笑)。月末で当サイトは満五年を迎えます。




2001ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762001

 梅雨と書き陳者と書き嫌になりぬ

                           永作火童

礼的な手紙か、商用の挨拶文だろうか。とにかく、紋切り型の手紙を書く必要が生じた。そこで「梅雨の候時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」などと時候の挨拶を書き、さて「陳者(のぶれば)」と本題に入るところで「嫌に」なってしまつた。よくあることだが、梅雨期の鬱陶しさも手伝うので、「梅雨」と書くだけでも「嫌に」なった気持ちがよく出ている。紋切り型の手紙文は親しくもない相手にも、欠礼することなく何事かを伝えられて便利だが、個人的な感情や感覚の披歴ができないので、おのずから書き手の存在は希薄になる。受け取るほうも同じことで、まず隅から隅まで丹念に読むことはしない。お互いにそれがわかっていても、なおこの種の手紙が必要なのは、自己を希薄にしての人間関係が実は社会生活の大元を占めているからだろう。手紙の作法はもちろん、その他の礼儀作法にしても、希薄な人間関係を希薄なままに保つ知恵の一つと言ってもよいと思う。そんな表面的な礼儀など知るものかと、放り出すことも可能だ。簡単だ。だが、世の希薄な人間関係は、放り出した人間にも常に希薄な関係を迫ってくる。どのようにか。ここで我が若き日の苦い体験を思い出して、それこそ「陳者」と披露したいところだが、私もだんだん「嫌に」なってきたので、これにて失礼。早々頓首。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


June 2662001

 病みし馬緑陰深く曳きゆけり

                           澁谷 道

したたる明るい青葉の道を、一頭の病み疲れた馬が木立の奥「深く」へと曳かれてゆく。情景としては、これでよい。だが「曳きゆけり」とあるからには、力点は馬を曳いている人の所作にかかっている。つまり、緑の「健康」と馬の「不健康」の取り合わせの妙味ではなく、眼目は曳き手が馬をどこに連れていき、どうしようとしているのか、それがわからない不気味さにある。「緑陰深く」曳かれていった馬は、これからどうなるのだろうか。謎だ。謎だからこそ、魅力も生まれてくる。句は、そんな不安が読者の胸によぎるように設計されている。ずっと気にかかってきた句だが、近着の「俳句」(2001年7月号)に、作者自身の掲句のモチーフが披露されていて、アッと思った。当時の作者は医師になるべく勉強中で、インターンとして働いていた。「舞鶴港に上陸した多数の傷病帰還兵の人々が送り込まれ、カルテを抱えて病棟の廊下を小走りに右往左往する日々の只管痛ましい思いの中で詠んだ句であった」。すなわち、作者は「緑陰深く」に何があって、そこでどういうことが起きるのかを知っていたわけだ。句だけを読んで、誰もこの事情までは推察できないだろうが、謎かけにはちゃんと答えの用意がなければ、その謎には力も魅力もないのは自明のことである。『嬰』(1966)所収。(清水哲男)


June 2562001

 月下美人あしたに伏して命あり

                           阿部みどり女

に咲く花。いまのマンションに引っ越してきたころ、管理人が育てていた「月下美人」が咲きそうだというので、深夜に子供たちを含めて、大勢で開花を待ったことがある。二十年ほど前のことだが、当時は非常に珍しく、見事に咲くと新聞の地方版に写真が載るほどだった。純白の大花。サボテン科というけれど、トゲもないし、一般的なサボテンのイメージには結びつけにくい。同じ作者に「月下美人一分の隙もなきしじま」とあるように、開花した姿は息をのむような美しさだ。その絢爛にして「一分の隙もなき」花が、しかし「あした(朝)」の訪れとともに、がっくりと首を折るようにしてうなだれてしまう。このときに作者が若年であれば、そんな花の様子に「哀れ」を覚えるだけかもしれない。が、作者の高齢(九十歳前後)は「伏して」もなお「命あり」と、外見の衰えよりも、その底で脈打つ「命」の鼓動に和している。「立てば芍薬」など、女性を花に例えるのは男の仕業であり、それも多くは外見的な範疇でのことにとどまる。しからば、逆に女性の場合はどうなのだろうか。おのれを花に擬する気持ちがあるとすれば、どのようにだろうか。回答のひとつが、この句であってもよいような気がする。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)




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