ボーナスは封も切らずに新宿の酒場へ。そんなドンブリ勘定で生きていた。ああ、呑気な若き日よ。




2001ソスN6ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2362001

 金魚赤し賞与もて人量らるる

                           草間時彦

の賞与(ボーナス)。季語としての「賞与」は、冬期に分類されている。昔の「賞与」は、正月のお餅代の意味合いが濃かったからだろう。欧米のbonusと言うと、能率給制度のもとで標準作業量以上の成果をあげた場合に支払われる賃金の割増し分のことのようだが、日本ではお餅代のように、長く慰労的・恩恵的な慣習的給与のニュアンスが強かった。そこに、だんだん会社への貢献度を加味すべく「査定」なる物差しが当てはじめられたから、掲句のようなやるせなさも鬱積することになった。私はサラリーマン生活が短かったので、作者の鬱屈とはほぼ無縁だったけれど、外部から見ていて、スパイ情報を集めて査定をするような会社は、やはりイヤだった。いまどきの能率を言いたてる会社に勤める人には、作者以上の憤懣を抱く人が多いだろう。でも、出ないよりはマシというもの。出ない人は、この夏もたくさんいる。それはさておき、人を能率や効率の物差しで「量(はか)る」とは、どういうことなのか。そんなことで、安易に人の価値なんて決められるものか。そう叫びたくても、叫べない。叫べない気持ちのままに、金魚鉢の赤い金魚を見る。その鮮やかな赤さに、しかし、おのれの愚痴に似た口惜しさなどは跳ね返されてしまうのだ。人に飼われる「金魚」ほどにも、みずからの会社人間としての旗色が鮮明ではないという自嘲だろう。作者が三十代にして、やっと定職を得たころの作品。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


June 2262001

 四方に告ぐここにわれありアマリリス

                           小沢信男

の形は百合に酷似する「アマリリス」だが、アフリカやメキシコなど熱帯地方の原産だという。ヒガンバナ科。深紅色とでも言うべき花の色が、それを告げている。しゃきっと咲いた「アマリリス」の姿は、なるほど「ここにわれあり」と「四方(よも)」に存在を主張しているかのようだ。花の姿を見ての印象は、むろん個々人によって様々かつ微妙に異なるわけだが、この句にはそうした印象のずれを許さない迫力がある。試みに句の「アマリリス」を他の花と入れ替えてみれば、事は瞭然だろう。形の近しい百合では、清楚に過ぎて役不足。しゃきっとは咲くけれど、昂然と眉を上げるような気概にはほど遠い気がする。かといって本家のヒガンバナだと、「四方に告ぐ」が暑苦しくも不遜な科白に聞こえてしまう。「アマリリス」の気品が、不遜に聞かせないのだ。アジサイでは、はじめからこんなことは言わないだろうし……。などと詰めていくと、他の花には置き換えられないことがわかってくる。さらには、ちょっと深読みになるが、この「アマリリス」は、作者の江戸っ子気質と照応しており、いわば肝胆相照らすような存在だとも思える。江戸っ子の心意気を、花に託して申し述べれば「かくのごとし」という句ではなかろうかと。「アマリリス」の擬人化が、この読みを引きだした。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)




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