CD版『新潮文庫の100冊』を全部読んでやろうと思い立った。なぜか阿川弘之『山本五十六』から。




2001ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


June 2062001

 母棲んでしんかんたりや氷水

                           清水基吉

い日に、独り住まいの老母を訪ねた。「氷水」は一般的に「かき氷」のことを言うが、四十年ほど前の句であることを考え合わせると、氷片を浮かべた砂糖水のようなシンプルな飲み物ではなかろうか。冷たいグラスには、水滴が滴っている。「しんかん(森閑)」が、小気味よくも効いている句だ。ひっそりと暮らす老母の「しんかん」。その住まいに染み込んでいるような「しんかん」。出された氷水の「しんかん」。そして母と子のさしたる会話も交わされない「しんかん」に至るまで、それらすべてが重ね合わされて浮き上がってくる。とくに変わった様子もない母親の姿に安堵して、作者はこの静けさに満足している。職場ではもとより自宅でも味わえない静けさのなかで、かく詠嘆する大人となった子供の心は、かつては賑やかだった我が家の盛りの頃をちらりと思い出したかもしれない。「人に盛りがあるように、家には家の盛りがある」という意味のことを書いたのは、たしか詩人の以倉紘平であった。掲句を読んでいて、そういうことも思い出した。「氷水」を飲んでから、作者はどうしたろうか。私なら、母に甘えてちょっと昼寝をさせてもらうだろう。そういうことも、思った。尊いほどに美しい句だ。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)


June 1962001

 鮓店にほの聞く人の行方かな

                           正岡子規

じみの「鮓(すし)店」。客もたいていがおなじみの面々だ。といってもお互いに深いつきあいはなく、顔を合わせれば「やあ」と言ったり目礼したりする程度。名前も職業も知らない人もいる。そんな常連の一人が、最近ぱたりと顔を見せなくなった。何となく気になるので、「どうしたのかなあ」と主人に尋ねてみる。「私もよくは知りませんが……」と話してくれた主人の言で、ぼんやりとではあるが「行方」などが知れた。尋ねるほうも話すほうも、何がなんでも事情や所在を知ろうというわけではないので、会話は「ふうん」くらいで終わってしまう。それが「ほの聞く」。常連の多い店の会話は、だいたいこんなものだ。詮索好きの客や主人がいるとしたら、人は寄ってこない。付かず離れずの関係でいられるからこそ、居心地がよいのである。客は、いわば雰囲気も同時に食べている。そんな「鮓店」のよい雰囲気を、さらりと伝えた佳句だ。いまどきの回転鮨屋では、こうはいかない。ハンバーガー・ショップなどでもそうだが、腹ごしらえさえできればよいという店が跋扈している。逆に雰囲気を求めようとすれば高くつくし、この二十年ほどは、行きつけの店のないままに暮らしてきた。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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