「噫気(おくび)にも出さず父の日迎へけり」(戸辺基文)。たいていの父親は、こんな心持ちだ。




2001ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1762001

 方丈の五桁算盤扇風機

                           中村石秋

儀か法事の段取りの相談だろう。禅寺の「方丈(ほうじょう)」に通された。めったに入る部屋ではないので、緊張して僧を待つことしばし。そのうちに部屋の空気にも慣れ、見回して目についたのが「五桁算盤(ごけたそろばん)」と「扇風機」だった。使い込まれて黒光りした算盤と、おそらくは最新型の扇風機と。この取り合わせも面白いが、句の眼目はそこだけにはない。この二つの物は俗界のものであり、寺には似合わないものと、作者は感じたのだ。坊さんが算盤をはじいて金勘定に励んだり、無念無想の境地にある和尚が胸をはだけて、事もあろうに扇風機の風を受けたりしてはいけないのだ。むろん作者とて、寺には経営があることも、坊さんだって暑いときには暑いことも知っている。しかし、その楽屋をこのようにあからさまにされると、何だか有難みが薄まってしまう思いになるではないか。ここが眼目。寺でなくとも、普通の家庭を訪問しても、この種の軽い失望感に見舞われることがある。主人に抱いていたイメージが、部屋の置物ひとつでこわれてしまうことが……。編集者だったから、いろいろなお宅へ伺ったが、この点に気を使っていた一人が、劇作家の飯沢匡だった。どんなに親しくなっても、書斎には通さなかった。「だってキミ。オレがなんで『手紙の書き方』なんて本を持ってるのか、詮索されるのはイヤじゃないか」。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所収。(清水哲男)


June 1662001

 明け烏実梅ごろごろ落ちていて

                           寺井谷子

の本に「梅熟する時雨ふる、これを梅雨といふ」(『滑稽雑談』)とある。子供でも知っていることだが、私などは長い間都会で暮らしているうちに、実感的に梅雨の本意を感じなくなってしまった。しきりに梅雨と言いながら、感覚が「実梅(みうめ)」に至ることは稀である。掲句に出会って、ひさしぶりにその感覚がよみがえってきた。前夜は激しい風雨。荒梅雨。早朝に烏の声で目覚め、雨戸を繰って庭を見るとはたせるかな、懸念していたように、梅の実が「ごろごろ」とたくさん落ちてしまっていた。いまだ曇り空のあちこちでは、烏たちがわめくように鳴いている。絵に描けば荒涼たる風景ではあるけれど、このときに作者が捉えているのは、むしろあるがままの自然を前にし受容した充実感だろう。こういう実感が湧くのは、まだ人間が動きはじめない早朝だからこそである。雨の匂い、濡れた土の匂い、樹木の匂いがさあっと身体を包み込む。「ごろごろ」と落ちている梅の実の後始末なんて、実はいまは考えてはいないのだ。この気持ちを恍惚と評すると表現過剰かもしれないが、何かそれに近いような気持ちになっている。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)


June 1562001

 酒十駄ゆりもて行や夏こだち

                           与謝蕪村

かにも画家の句らしい。絵になっている。「行」は「ゆく」。四斗(三斗五升とも)樽二つを「一駄」と数え、馬一頭の荷とした。したがって夏木立を行く馬の数は十頭になるが、これは構図をぴしりと決めるための言葉の綾だろう。二つの樽を振り分けにして、馬たちが尻を振り振り夏の木立を行く。木立の緑が夏の日に照り映え、馬の身体も木漏れ日に輝いている。歩みに連れて「こも被り」がだくんだくんと揺れ、揺れるたびに酒に樽の木の香がしみこんでいく(ようである)。さながら周囲の万緑の木立の香も、共にしみこんでいくようではないか。酒飲みの人ならば、思わず喉が鳴りそうな情景だ。さて「駄足」、じゃなくて蛇足。「十駄」の「駄」のように、物を数えるときの「助数詞」はややこしい。子供のころに兎は「一羽」と数えるのだよと教えられ、びっくりした記憶もある。鏡は「面」で硯(すずり)も「面」、封筒は「袋(たい)」で封書は「通」。さらには人力車は「挺(ちょう)」と数え、アドバルーンは「本」であり、トンネルも「本」なのだそうな。にぎり寿司は「カン」と言うが、どんな漢字を当てるのか。とても覚えきれないでいるけれど、と言って、最近のように何でもかでも「個」ですませるのには抵抗がある。「ラーメン一個」じゃ茹でが足りなさそうだし、「三個目の駅」じゃ小さすぎて降りられそうもない。(清水哲男)




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