1960年6月15日。黙祷。あのころ、首相からメールマガジンが届く時代を誰が予測したろうか……。




2001ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562001

 酒十駄ゆりもて行や夏こだち

                           与謝蕪村

かにも画家の句らしい。絵になっている。「行」は「ゆく」。四斗(三斗五升とも)樽二つを「一駄」と数え、馬一頭の荷とした。したがって夏木立を行く馬の数は十頭になるが、これは構図をぴしりと決めるための言葉の綾だろう。二つの樽を振り分けにして、馬たちが尻を振り振り夏の木立を行く。木立の緑が夏の日に照り映え、馬の身体も木漏れ日に輝いている。歩みに連れて「こも被り」がだくんだくんと揺れ、揺れるたびに酒に樽の木の香がしみこんでいく(ようである)。さながら周囲の万緑の木立の香も、共にしみこんでいくようではないか。酒飲みの人ならば、思わず喉が鳴りそうな情景だ。さて「駄足」、じゃなくて蛇足。「十駄」の「駄」のように、物を数えるときの「助数詞」はややこしい。子供のころに兎は「一羽」と数えるのだよと教えられ、びっくりした記憶もある。鏡は「面」で硯(すずり)も「面」、封筒は「袋(たい)」で封書は「通」。さらには人力車は「挺(ちょう)」と数え、アドバルーンは「本」であり、トンネルも「本」なのだそうな。にぎり寿司は「カン」と言うが、どんな漢字を当てるのか。とても覚えきれないでいるけれど、と言って、最近のように何でもかでも「個」ですませるのには抵抗がある。「ラーメン一個」じゃ茹でが足りなさそうだし、「三個目の駅」じゃ小さすぎて降りられそうもない。(清水哲男)


June 1462001

 いかにも髪切虫を見る眼つき

                           加倉井秋を

字通りに、髪の毛くらいは平気で噛み切ってしまう。樹木を害するが、人畜には無害だ。「天牛(かみきり)」とも書き、種類は多いようだが、最もポピュラーなのは黒地に白い斑点のある「胡麻斑天牛(ごまだらかみきり)」だろう。体長4センチ前後。最近、とんと見かけなくなった虫だ。昔はこいつが鞭のように長い触角を振り上げてガサゴソと出現すると、昆虫好きの人は別にして、たいていの人はキッと身構えた。その「眼つき」はといえば、句のように「いかにも」としか言いようがないのである。直接「髪切虫」を描くのではなく、それを見る人の眼つきを通して虫のありようを言い当てているところが面白い。「いかにも」と字足らずの表現も、素早い身構えに対応している。この虫を知らなくても、ゴキブリやヘビに置き換えてみれば、おおよその句意の見当はつくはずだ。ただ髪切虫の場合はゴキブリなどと違って、あまり陰湿な感じは受けない。獰猛な感じもするが、どこか憎めないところがある。だから、いきなり殺そうとする人は稀ではなかろうか。せいぜいが捕まえて、ぽいと表に放り出すくらいだ。捕まえるとキイキイと鳴くので、哀れでもある。同じ作者に「妻病みて髪切虫が鳴くと言ふ」がある。こちらは、愛しくも哀れ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1362001

 牛も馬も人も橋下に野の夕立

                           高浜虚子

里離れた「野」で夕立に見舞われたら、まず逃げようがない。どうしたものかと辺りを見回すと、土地の人たちが道を外れて河原に下り、橋の下に駆け込んでいくのが見えた。これしかない。作者も急いで駆け込んでみたら、人ばかりか「牛も馬も」が雨宿りをしていた。「牛も馬も」で、夕立の激しさが知れる。そこで「牛も馬も人も」が、所在なくもしばしいっしょに空を見上げて、雨の通り過ぎていくのを待つのである。この橋は、木橋だろう。だとすれば、橋を打つ雨の音もすさまじい。実景を想像すると、なんとなく滑稽でもあり牧歌的にも思えてくるのは、「野の夕立」の「野」の効果だ。上五中七で、ここが「野」であることは誰にでもわかる。にもかかわらず、虚子はあえて「野」を付け加えた。何故か。「野」を付け加えることで、句全体の情景が客観的になるからである。かりに「夕立かな」などで止めると、句の焦点は橋の下に集まり、生臭い味は出るが小さくまとまりすぎる。あえて「野」と張ったことにより、橋の下からカメラはさあっとロングに引かれ、橋下に降りこめられた「牛も馬も人も」が遠望されることになった。大いなる自然のなか、粗末な木の橋の下に肩寄せ合うしかない生きものたちの小ささがより強調されて、哀れなような情けないような可笑しさがにじみ出てきた。だが、もう一つの読み方もできる。虚子は最初から、橋の下なんぞにはいなかった。それこそ、彼方に河原が見える料理屋かなんかにいて、この景色を見ていただけ……。となれば、句の魅力はかなり褪せてしまう。この場合にこそ「野」は不可欠だけれど、どっちかなア。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)




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