池田の事件で文科省が全国の学校に安全点検を促した。みじめな対応だ。まず自身に問わなければ。




2001ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262001

 ところてん遠出となればはすつぱに

                           小坂順子

先の茶店での即吟だろう。「ところてん」は、上品に食べようとすると食べにくい。「遠出」の解放感から、作者は音を立てながらすすっている。食べているうちに、なんて「はすつぱ」な食べ方だろうとは思うが、そんな「はすつぱ」ぶりを自然に発揮できるのも、旅ならではの喜びだ。よく「旅の恥はかき捨て」と言うが、それともちょっとニュアンスは違う。恥とも言えない恥。強いて言えば、自分でしか気づかない小さな恥だ。それを奔放な「はすつぱ」と捉えたわけで、逆に作者日頃のつつましさも浮き上がってくる。可愛い女性だと、男には写る。ところで「ところてん」は「心太」と書く。語源ははっきりしないようだが、『広辞苑』には「心太(こころぶと)をココロテイと読んだものの転か」とあった。いささか苦しい説明のようだが、昔は「ところてん売り」が来たというから、その売り声の「ココロテイ」が「トコロテン」と聞こえていたのかもしれない。物売りの声には独特の発声法があって、一度聞いたくらいでは何を売っているのかわからない場合も多い。現に、我が家の近所に隔日に車でやってくる八百屋のお兄ちゃんの売り声も、いまだに何と言っているのか私には判然としない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 1162001

 けむりあげ平日つづくかたつむり

                           田畑耕作

曜日とか金曜日とか、休日や祝日以外の曜日を特定した句は散見されるが、正面から「平日」を捉えて据えた句は珍しい。各曜日にはそれなりの表情があるけれど、平日にはそれが希薄だからである。のっぺらぼうだからだ。そんなのっぺらぼうの日々に「けむりあげ」と表情をつけたのが、掲句。「けむり」は民の竃(かまど)からあがるそれか、それとも直截的に工場街のそれなのか。はたまた、下五の「かたつむり」が想起させる梅雨にけむる人里だろうか。いずれにしても、人間の普通の営みや普通の環境を象徴する形容語として使われているのだろう。動くのか動かないのかわからないほどに、じいっとしている「かたつむり」。「けむり」をあげてはいるが、これまた動いているのかいないのかわからないくらいに凡々たる「平日」の人間のありよう。この二つを取り合わせることで、物憂いような気だるいような「平日」の気分が、意外にも非常に美しいシーンとして彫琢されることになった。この句をそらんじて「平日」の駅やバス停に向かう自分を想像すると、自分もこの句のなかに溶け込んでいるような気分になるだろうなと思った。悪くはないね、この気分。「平日つづく」明日もまた、いつものように「けむり」をあげて。『昭和俳句選集』(1977・永田書房)所載。(清水哲男)


June 1062001

 人叩く音にて覚めし昼寝かな

                           中村哮夫

目覚めるときに聞こえる音は、たいてい決まっている。カラスの鳴き声や鳥のさえずりであったり、新聞配達の人が駆けていく足音であったりと、耳慣れた音である。ところが昼間となると、実にいろいろな音がする。朝のように慣れた音ではなかなか目が覚めないけれど、昼の不意で雑多な音には慣れていないので、音で目が覚めることが多い。句はまずそのことを言っていて鋭いが、事もあろうに「人叩く音」というのだから穏やかではない。寝ぼけつつも、体内をサッと緊張感が走り抜けただろう。一瞬身構えて、半身を起こしたかもしれない。しかし、これはおそらく夢に混ざり込んできた音であって、現実の音は「人叩く音」ではなかったと思う。夢の中身に、タイミングよく何かの音が呼応して、それが「人叩く音」に聞こえてしまったのだ。かりに現実の音と読めば、句としては平凡すぎて面白くない。誰だって、現実の「人叩く音」には目覚めて当然だろうからだ。それにしても、いまの生臭いような音は何だったのか。作者は徐々に覚醒してくる意識のなかで、しきりに首をひねっている。表はまだ明るい。夢でよかった。読者の私も、そう思った。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)




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