井川博年『そして、船は行く』(思潮社)。いいなア、泣けてくる。これぞ抒情詩集だ。仁義集だ。




2001ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162001

 けむりあげ平日つづくかたつむり

                           田畑耕作

曜日とか金曜日とか、休日や祝日以外の曜日を特定した句は散見されるが、正面から「平日」を捉えて据えた句は珍しい。各曜日にはそれなりの表情があるけれど、平日にはそれが希薄だからである。のっぺらぼうだからだ。そんなのっぺらぼうの日々に「けむりあげ」と表情をつけたのが、掲句。「けむり」は民の竃(かまど)からあがるそれか、それとも直截的に工場街のそれなのか。はたまた、下五の「かたつむり」が想起させる梅雨にけむる人里だろうか。いずれにしても、人間の普通の営みや普通の環境を象徴する形容語として使われているのだろう。動くのか動かないのかわからないほどに、じいっとしている「かたつむり」。「けむり」をあげてはいるが、これまた動いているのかいないのかわからないくらいに凡々たる「平日」の人間のありよう。この二つを取り合わせることで、物憂いような気だるいような「平日」の気分が、意外にも非常に美しいシーンとして彫琢されることになった。この句をそらんじて「平日」の駅やバス停に向かう自分を想像すると、自分もこの句のなかに溶け込んでいるような気分になるだろうなと思った。悪くはないね、この気分。「平日つづく」明日もまた、いつものように「けむり」をあげて。『昭和俳句選集』(1977・永田書房)所載。(清水哲男)


June 1062001

 人叩く音にて覚めし昼寝かな

                           中村哮夫

目覚めるときに聞こえる音は、たいてい決まっている。カラスの鳴き声や鳥のさえずりであったり、新聞配達の人が駆けていく足音であったりと、耳慣れた音である。ところが昼間となると、実にいろいろな音がする。朝のように慣れた音ではなかなか目が覚めないけれど、昼の不意で雑多な音には慣れていないので、音で目が覚めることが多い。句はまずそのことを言っていて鋭いが、事もあろうに「人叩く音」というのだから穏やかではない。寝ぼけつつも、体内をサッと緊張感が走り抜けただろう。一瞬身構えて、半身を起こしたかもしれない。しかし、これはおそらく夢に混ざり込んできた音であって、現実の音は「人叩く音」ではなかったと思う。夢の中身に、タイミングよく何かの音が呼応して、それが「人叩く音」に聞こえてしまったのだ。かりに現実の音と読めば、句としては平凡すぎて面白くない。誰だって、現実の「人叩く音」には目覚めて当然だろうからだ。それにしても、いまの生臭いような音は何だったのか。作者は徐々に覚醒してくる意識のなかで、しきりに首をひねっている。表はまだ明るい。夢でよかった。読者の私も、そう思った。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


June 0962001

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや

                           石橋秀野

書に「山本元帥戦死の報に」とある。大戦中の連合艦隊司令長官であり、国民的に人気のあった山本五十六がソロモン諸島上空で戦死したのは、1943年(昭和十八年)四月十八日のことだった。八十八夜のずっと前だから、いまだ「薫風」の季節ではありえない。では何故、句では「薫風」なのか。時の政府が山本の戦死を、一ヶ月ほど隠していたからである。すぐに発表すれば、あまりにも国民の動揺が大きすぎるとの判断から、事実が自然に漏れ出るぎりぎりまで延ばしたのだった。発表されたのは五月も下旬、国葬は六月に行われている。しかし、これで多くの人たちが否応なく戦局不利を実感してしまう。戦死の報に触れたときに、作者は思わずも「膝をたゞ」した。「こんなことがあって、よいものか」。いまこうして自分が居住まいを正していることさえ「夢なれや」、信じられない。すがすがしい「薫風」との取り合わせで、鮮やかに悲嘆落胆の度合いが強まった。時局におもねっているのではなく、作者は本心で五十六の死に呆然としている。当時世論調査が行われていれば、山本元帥の支持率は限りなく100パーセントに近かったろう。最近の小泉首相高支持率の中身が気にかかるので、いささか季節外れ(時節外れ)の掲句を扱ってみたくなった。『定本 石橋秀野句文集』(2000)所収。(清水哲男)




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