「Photoshop Elements」が欲しくなった。なぜこんなにも画像処理ソフトが好きなのだろう。謎。




2001ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0662001

 万霊の天より圧す梅雨入かな

                           目迫秩父

日までに、東海地方以西が梅雨に入った。関東地方も今日あたりか。また、長雨の季節がやってきた。句の「梅雨入」は「ついり」と読む。「万霊(ばんれい)」は、キリスト教の「万霊節」で言うそれではないけれど、ほぼ共通した概念と読める。この世を去ったすべての人々の霊である。垂れ込めた雨雲は、それらすべての霊が地上で生きている人間を圧しているのだと作者は捉え、梅雨をいわば「生きている人としての自分」の一身に引き受けている。これからの鬱陶しさを思って横を向いてしまうのではなく、作者はこれまたいわば「おのれの全霊」をもって天上の「万霊」に進んで圧されている。この捉え方は主観的ではあるけれど、このように言うことで主観の凄い効果が出た。この句をそのまま飲み込むことにより、少なくともこれまでの私の梅雨入り時の思いは一新されるだろう。ちと大袈裟だが、覚悟が決まる。「万霊」のなかには親しかった人たちの「霊」があり、灰色の空を仰げば、彼らの生前の像すらもが感じられるようだ。圧されて当然であり、圧されていると思えば、逆に雨期もこれまでとは違った味わい深い時間になる。句は世界を大きく張っているように見えるが、細かく柔らかい雨粒のようになって、読者一人ひとりの胸にじんわりとだが、確実に届くはずだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0562001

 母と子の生活の幅の溝浚ふ

                           菖蒲あや

句は、日常生活のレポート的側面を持つ。だから興味深いところがある反面、「だから」わからないところも出てくる。掲句はいわゆる「ドブさらい」を詠んでいるが、下水道が発達した現在では「ドブ」そのものが姿を消してしまった。もう二十年ほども前、泉麻人に「東京はドブの匂いがしなくなりましたね」と言われたことを覚えているので、いまの二十代くらいの人の大半にとっては、もはや理解不能な句ではあるまいか。そういう読者のために、句の載っている『俳諧歳時記・夏』(新潮文庫)の解説を丸写ししておく。「夏になって溝に汚水がたまると、蚊が発生したり、不潔な匂いを発生したりするので、近所の人達が集まって掃除をする。定期的にやるところもある。涼しい朝のうちに、主婦たちが集まって、何かと話に興じながら清掃する」。傍観者には、いわば夏の朝の風物詩。主婦にとっては、井戸端会議ならぬ「ドブ端会議」の場であった。ドブはごく細い溝だから、みんなで清掃すると言っても、自宅前のドブを浚えばよいわけだ。それを作者は「生活(たつき)の幅」と言い止めた。すなわち、「母と子」だけが暮らすささやかな家の前のドブは短い、と。物事には、実際に携わってみないとわからないことが、たくさんある。傍観者には詠めない句である。(清水哲男)


June 0462001

 つかみ合子供のたけや麦畠

                           垂葉堂游刀

来の作という説もある。それにしても「垂葉堂游刀(すいようどう・ゆうとう)」とは、ユニークな名前だ。能楽師。見事に伸び揃った麦の畑で、二人の子供が取っ組み合いの喧嘩をしている。「子供のたけ」は麦のそれくらいというのだから、小さな子供らだ。この喧嘩、放っておいても大事にいたる心配はない。むしろ元気があって大いによろしいと、作者は微笑している。この元気が麦の元気と照応して、今年もよく実った麦の出来を素直に喜ぶ気分が溢れ出た。この句について山本健吉は「裏に麦ぼめの伝統が生きていよう」と指摘しているが、江戸期の読者ならうなずけるところだろう。「麦ぼめ」とは「正月二十日。麦とろを食べてから麦畑に出て、麦をほめる唱え言をする風習。中国地方の山間部などに残る」と、『広辞苑』にある。現代の園芸でも、褒め言葉を声に出しながら花を育ててやると、より奇麗に咲くという話はよく聞く。ましてや、麦作は農家の生命線だ。風習としての「唱え事」も、さぞかし熱を帯びていたにちがいない。一見形骸化したような言葉でも、しかるべきシチュエーションで実際に口に出してみると、にわかに実質を取り戻すから不思議だ。この場合の実質は「いつくしみの心」である。『猿蓑』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます