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May 2752001

 黄金の蓮へ帰る野球かな

                           摂津幸彦

者は「蓮」を「はちす」と古名で読ませている。この句に散文的な意味を求めても、無意味だろう。求めるのはイメージだ。そのイメージも、すっと目に浮かぶというようなものではない。「黄金の蓮」はともかく、句の「野球」は視覚だけでは捉えられないイメージだからだ。強いて定義するならば、全体のどの一つが欠けても、野球が野球として成立しなくなる全ての「もの」とでも言うべきか。ここには人や用具や球場の具体も含まれるし、ルールや記録の概念も含まれるし、プレーする心理や感情の揺れや、むろん身体の運動も含まれている。その「野球」の一切合切が「黄金の蓮」へと帰っていくのだ。帰っていく先は、すなわち蓮の花咲く極楽浄土。目には見えないけれど、作者は全身でそれを感じている。句作の動機は知る由もない。が、たとえば生涯に二度と見られそうもない良いゲームを見終わった後の感懐か。試合の余韻はまだ胸に熱いが、もはやゲームが終わってしまった以上、その「野球」は永遠に姿を消してしまう。死ぬのである。いままさにその「野球」の全てが香気のように立ちのぼつて、この世ならざる世界に帰っていくところだ。いまひとつ上手に解説できないのは口惜しいが、好ゲームが終わって我ら観客が帰るときに、ふっと胸中をよぎる得も言えぬ満足感を、あえて言語化した一例だと思った。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)


July 3072008

 酔ひふしのところはここか蓮の花

                           良 寛

の花で夏。「ところ」を「宿(やどり)」とする記録もある。良寛は酒が大好きだったから、酒を詠んだ歌が多い。俳句にも「ほろ酔の足もと軽し春の風」「山は花酒や酒やの杉はやし」などと詠んだ。酒に酔って寝てしまった場所というのは、ここだったか・・・・。傍らには蓮の花がみごとに咲き香っている。まるで浄土にいるような心地。「蓮の花」によって、この場合の「酔ひふし」がどこかしら救われて、心地良いものになっている。良寛は庵に親しい人を招いては酒を酌み、知人宅へ出かけては酒をよばれて、遠慮なくご機嫌になった。そんなときぶしつけによく揮毫を所望されて困惑した。断固断わったこともたびたびあったという。子どもにせがまれると快く応じたという。基本的に相手が誰であっても、酒はワリカンで飲むのを好んだ、というエピソードが伝えられている。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「酔臥(よひふし)の宿(やどり)はここぞ水芙蓉」があり、掲出句はどうやら父の句を踏まえていたように思われる。蓮の花の色あいの美しさ清々しさには格別な気品があり、まさに極楽浄土の象徴であると言ってもいい。上野不忍池に咲く蓮は葉も花もじつに大きくて、人の足を止めずにはおかない。きれいな月が出ていれば、用事を忘れてしゃがんでいつまでも見あげていることのあった良寛、「ここ」なる蓮の花に思わず足を止めて見入っていたのではあるまいか。今年は良寛生誕250年。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)




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