六年余付き合った局舎と別れて、今日から新しいスタジオでの放送だ。緊張するのですよ、これが。




2001ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452001

 青嵐おお法螺吹きをくつがえす

                           三宅やよい

快痛快。「おお」は「大」とも読めるが、感嘆詞として読むほうが面白い。日頃から大言虚言を吐きつづけてビクともしない憎たらしい奴が、折からの「青嵐」に見ん事ひっくり返されちゃった。ザマア見やがれ、なのである。「なぎ倒す」などではなく「くつがえす」と言ったのは、むろん「論理を『くつがえす』」という概念が作者の意識にあるからだ。この句は実景として「法螺(ほら)吹き」がひっくり返った様子を想像することもできるし、比喩として「法螺吹き」が強力かつ精密な有無を言わせぬ論理(青嵐)によってやり込められたと読むこともできる。いや、その実景と比喩が重なって喚起されるから面白いと言うべきだろう。この題材にしては、少しの陰湿さも感じさせないところも素敵だ。同じ作者に「リリーフは放言ルーキー雲の峰」がある。口ばかり達者な「ルーキー」というのも、まことに可愛げがなく憎たらしい。そいつが、ついに「リリーフ」に出てきた。「ああ、こりゃもうアキまへん」と、作者は天を仰いだ。天には、モクモクと入道雲が涌き出ている。にわかに暑さが実感され、ゲームへの集中力が切れてしまった。さあて、ボチボチ引き上げるとするか。『玩具箱』(2000)所収。(清水哲男)


May 2352001

 蒼き胸乳へ蒼き唇麦の秋

                           夏石番矢

ガとポジの対比の構図が印象深い。画家の色彩で言えば、ピカソの青(蒼)とゴッホの黄が一枚の絵に塗られている感じだ。「蒼き胸乳(むなぢ)へ蒼き唇」とは、男女相愛の図か、それとも授乳のそれだろうか。どちらに読むかは読者の想像力にゆだねられているが、前者とすれば、いわば「頽廃と健全」との対比となろうし、後者ならば「貧富」の差を象徴的に浮き上がらせた句と読める。私は、初見では前者と読んだ。しかし考え直して、あえて後者と読んでみると、貧しさゆえに満足に母乳の出ない乳首に、本能的に「唇」を寄せる赤子の姿が痛々しい。と同時に、蒼き「口」ではなく「唇」としたところに、なおさら本能の生々しさを感じさせられる。窓外一面に熟れて波打つ麦は、この母子には無縁の作物なのである。いずれにしても、テーマは動物としての人間の哀しみだろう。明暗を対比させた句は珍しくないが、単に明暗の対比に終わることなく、一歩進めて本能を繰り出すことにより、人間存在のありようを確かに言い止めている。これからの梅雨を控えて、農家は忙しくなる時期だ。麦は「百日の蒔き期に三日の刈り旬」と言う。麦畑が光彩を放つ季節だけに、掲句の「蒼」の鈍い光が、いよいよ重く胸に沁み入る。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


May 2252001

 かたつむりたましひ星にもらひけり

                           成瀬櫻桃子

石のような句だ。「かたつむり(蝸牛)」に「たましひ」があるなどとは考えもしなかったが、このように詠まれてみると、確かに「たましひ」はあるのだと説得される。それも「星」にもらったもの、星の雫(しずく)のようなちっちゃな「たましひ」……。固い巻き貝状の身体を透かして、ぼおっと灯っているように見える「たましひ」なのだ。蝸牛の目は、ただ明暗を判別できる機能しかないと言うが、星にもらった「たましひ」の持ち主だから、それで十分なのである。「角だせ槍だせ 頭だせ」とはやし立てられようとも、怒りもせず苦にもせず、静かに大切に「たましひ」を抱いて生きていく。小賢しい人知をはるかに越えて、一つの境地を得ているのだ。作者が「かたつむり」の「たましひ」を詠むについては、おそらく次の句のような身辺事情が関わっているだろう。「地に落ちぬででむし神を疑ひて」。前書に「長女美奈子ダウン氏症と診断さる」とある。そして、また一句。前書に「美奈子二十二歳にて中学卒業」とあって「花冷や父娘にことば少なくて」。しかし、この事情を知らなくても、掲句の透明な美しさはいささかもゆるぐものではない。『素心』(1978)所収。(清水哲男)




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