近所に鯨を出す店があった。でも、ベーコン一切れが260円。昔はタダみたいなものだったのに…。




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May 2352001

 蒼き胸乳へ蒼き唇麦の秋

                           夏石番矢

ガとポジの対比の構図が印象深い。画家の色彩で言えば、ピカソの青(蒼)とゴッホの黄が一枚の絵に塗られている感じだ。「蒼き胸乳(むなぢ)へ蒼き唇」とは、男女相愛の図か、それとも授乳のそれだろうか。どちらに読むかは読者の想像力にゆだねられているが、前者とすれば、いわば「頽廃と健全」との対比となろうし、後者ならば「貧富」の差を象徴的に浮き上がらせた句と読める。私は、初見では前者と読んだ。しかし考え直して、あえて後者と読んでみると、貧しさゆえに満足に母乳の出ない乳首に、本能的に「唇」を寄せる赤子の姿が痛々しい。と同時に、蒼き「口」ではなく「唇」としたところに、なおさら本能の生々しさを感じさせられる。窓外一面に熟れて波打つ麦は、この母子には無縁の作物なのである。いずれにしても、テーマは動物としての人間の哀しみだろう。明暗を対比させた句は珍しくないが、単に明暗の対比に終わることなく、一歩進めて本能を繰り出すことにより、人間存在のありようを確かに言い止めている。これからの梅雨を控えて、農家は忙しくなる時期だ。麦は「百日の蒔き期に三日の刈り旬」と言う。麦畑が光彩を放つ季節だけに、掲句の「蒼」の鈍い光が、いよいよ重く胸に沁み入る。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


May 2252001

 かたつむりたましひ星にもらひけり

                           成瀬櫻桃子

石のような句だ。「かたつむり(蝸牛)」に「たましひ」があるなどとは考えもしなかったが、このように詠まれてみると、確かに「たましひ」はあるのだと説得される。それも「星」にもらったもの、星の雫(しずく)のようなちっちゃな「たましひ」……。固い巻き貝状の身体を透かして、ぼおっと灯っているように見える「たましひ」なのだ。蝸牛の目は、ただ明暗を判別できる機能しかないと言うが、星にもらった「たましひ」の持ち主だから、それで十分なのである。「角だせ槍だせ 頭だせ」とはやし立てられようとも、怒りもせず苦にもせず、静かに大切に「たましひ」を抱いて生きていく。小賢しい人知をはるかに越えて、一つの境地を得ているのだ。作者が「かたつむり」の「たましひ」を詠むについては、おそらく次の句のような身辺事情が関わっているだろう。「地に落ちぬででむし神を疑ひて」。前書に「長女美奈子ダウン氏症と診断さる」とある。そして、また一句。前書に「美奈子二十二歳にて中学卒業」とあって「花冷や父娘にことば少なくて」。しかし、この事情を知らなくても、掲句の透明な美しさはいささかもゆるぐものではない。『素心』(1978)所収。(清水哲男)


May 2152001

 男女蟇の前後を分れ通る

                           ねじめ正也

者は、東京の高円寺で乾物屋を営んでいた。いつも必然的に、店の奥から通りの様子を見ていることになる。おっ、でっかい「蟇(がま)」公が出てきたな。しかも、通りの真ん中に平然とうずくまってしまった。こいつは見物(みもの)だ。行き交う人が、どんな反応するか。ヒマな店主としては、こんな瑣事でも娯楽になる。見ていると、折から通りかかったカップルが、これまた平然と「前後を分れ通って」行ってしまった。なあんだい、「キャッ」くらいは言ったらどうなんだいと、作者はがっかりしている。この「前後を」に注目。「左右を」ではない。つまり、うずくまった蟇は、道に添った方向に頭を向けているのではなくて、作者の方を向いているのだ。尻を向けているとも読めるが、それでは面白くない。せっかく目と目を合わせられる位置にいるのに、蟇はたぶん瞑目しており(いつもそのように見える)、作者のがっかりも互いの目線では伝わらない。独り相撲だったな。そこで、この句がポッとできた。昔の高円寺という郊外の町の夕暮時の雰囲気が、よく出ている。私はこの店を実際に知っているので、余計にそう感じるのかもしれない。いまは、子息のねじめ正一君の小説の題名から採った「高円寺純情商店街」と通りの名前も変わったけれど、ここは焼けなかったので戦前と同じ狭い道幅である。でも、もう蟇は出ないだろうな。1955年(昭和三十年)の作。『蝿取リボン』(1991)所収(清水哲男)




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