職場で引っ越しの整理をしながら、家にあるツン読本の山を思った。こうやれば片づくじゃないか。




2001ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252001

 かたつむりたましひ星にもらひけり

                           成瀬櫻桃子

石のような句だ。「かたつむり(蝸牛)」に「たましひ」があるなどとは考えもしなかったが、このように詠まれてみると、確かに「たましひ」はあるのだと説得される。それも「星」にもらったもの、星の雫(しずく)のようなちっちゃな「たましひ」……。固い巻き貝状の身体を透かして、ぼおっと灯っているように見える「たましひ」なのだ。蝸牛の目は、ただ明暗を判別できる機能しかないと言うが、星にもらった「たましひ」の持ち主だから、それで十分なのである。「角だせ槍だせ 頭だせ」とはやし立てられようとも、怒りもせず苦にもせず、静かに大切に「たましひ」を抱いて生きていく。小賢しい人知をはるかに越えて、一つの境地を得ているのだ。作者が「かたつむり」の「たましひ」を詠むについては、おそらく次の句のような身辺事情が関わっているだろう。「地に落ちぬででむし神を疑ひて」。前書に「長女美奈子ダウン氏症と診断さる」とある。そして、また一句。前書に「美奈子二十二歳にて中学卒業」とあって「花冷や父娘にことば少なくて」。しかし、この事情を知らなくても、掲句の透明な美しさはいささかもゆるぐものではない。『素心』(1978)所収。(清水哲男)


May 2152001

 男女蟇の前後を分れ通る

                           ねじめ正也

者は、東京の高円寺で乾物屋を営んでいた。いつも必然的に、店の奥から通りの様子を見ていることになる。おっ、でっかい「蟇(がま)」公が出てきたな。しかも、通りの真ん中に平然とうずくまってしまった。こいつは見物(みもの)だ。行き交う人が、どんな反応するか。ヒマな店主としては、こんな瑣事でも娯楽になる。見ていると、折から通りかかったカップルが、これまた平然と「前後を分れ通って」行ってしまった。なあんだい、「キャッ」くらいは言ったらどうなんだいと、作者はがっかりしている。この「前後を」に注目。「左右を」ではない。つまり、うずくまった蟇は、道に添った方向に頭を向けているのではなくて、作者の方を向いているのだ。尻を向けているとも読めるが、それでは面白くない。せっかく目と目を合わせられる位置にいるのに、蟇はたぶん瞑目しており(いつもそのように見える)、作者のがっかりも互いの目線では伝わらない。独り相撲だったな。そこで、この句がポッとできた。昔の高円寺という郊外の町の夕暮時の雰囲気が、よく出ている。私はこの店を実際に知っているので、余計にそう感じるのかもしれない。いまは、子息のねじめ正一君の小説の題名から採った「高円寺純情商店街」と通りの名前も変わったけれど、ここは焼けなかったので戦前と同じ狭い道幅である。でも、もう蟇は出ないだろうな。1955年(昭和三十年)の作。『蝿取リボン』(1991)所収(清水哲男)


May 2052001

 水中花だんだんに目が嶮しくなる

                           岸田稚魚

が発明したのだろうか。江戸期には酒杯に浮かべて「酒中花」とも言ったそうだが、水の中で花を咲かせるという発想は、破天荒かつ叙情的で素晴らしい。大人になってからも、私はときどき買ってきて咲かせている。適当な大きさのコップに水を入れ、さてちゃんと咲いてくれるかどうかと目を凝らすときが楽しい。当たり外れがあって、なかなかきちんとは咲いてくれないので、たしかに「だんだんに目が嶮しく」なっているかもしれないなと、苦笑した。たかが「水中花」であり、うまく咲かなくても何がどうなるというわけでもないが、戯れ事にせよ、眼前の関心事に一心に集中する「目」を捉えた掲句には鋭いものがある。句の魅力は「水中花」と出ながらも、作者の「目(意識)」がそれを咲かせている人(作者自身であってもよい)の「目」に、すっと自然に逸れているところにある。瞬間的に、視点をずらしている。思えば、後年の稚魚は目を逸らす達人であった。直接の対象の姿かたちから空間的時間的にいきなり「目」を逸らし、そのことによって句に物語性を紡ぎだす作法を得意とした。「からたちの花の昔の昔かな」などは典型だろうが、観念的で言葉の遊戯でしかないとする批判の声もあった。『萩供養』(1982)所収。(清水哲男)




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