職場の引っ越しがはじまる。運送屋さんの出入り激しきなかでの放送だ。二度目の体験ながら心配。




2001ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152001

 男女蟇の前後を分れ通る

                           ねじめ正也

者は、東京の高円寺で乾物屋を営んでいた。いつも必然的に、店の奥から通りの様子を見ていることになる。おっ、でっかい「蟇(がま)」公が出てきたな。しかも、通りの真ん中に平然とうずくまってしまった。こいつは見物(みもの)だ。行き交う人が、どんな反応するか。ヒマな店主としては、こんな瑣事でも娯楽になる。見ていると、折から通りかかったカップルが、これまた平然と「前後を分れ通って」行ってしまった。なあんだい、「キャッ」くらいは言ったらどうなんだいと、作者はがっかりしている。この「前後を」に注目。「左右を」ではない。つまり、うずくまった蟇は、道に添った方向に頭を向けているのではなくて、作者の方を向いているのだ。尻を向けているとも読めるが、それでは面白くない。せっかく目と目を合わせられる位置にいるのに、蟇はたぶん瞑目しており(いつもそのように見える)、作者のがっかりも互いの目線では伝わらない。独り相撲だったな。そこで、この句がポッとできた。昔の高円寺という郊外の町の夕暮時の雰囲気が、よく出ている。私はこの店を実際に知っているので、余計にそう感じるのかもしれない。いまは、子息のねじめ正一君の小説の題名から採った「高円寺純情商店街」と通りの名前も変わったけれど、ここは焼けなかったので戦前と同じ狭い道幅である。でも、もう蟇は出ないだろうな。1955年(昭和三十年)の作。『蝿取リボン』(1991)所収(清水哲男)


May 2052001

 水中花だんだんに目が嶮しくなる

                           岸田稚魚

が発明したのだろうか。江戸期には酒杯に浮かべて「酒中花」とも言ったそうだが、水の中で花を咲かせるという発想は、破天荒かつ叙情的で素晴らしい。大人になってからも、私はときどき買ってきて咲かせている。適当な大きさのコップに水を入れ、さてちゃんと咲いてくれるかどうかと目を凝らすときが楽しい。当たり外れがあって、なかなかきちんとは咲いてくれないので、たしかに「だんだんに目が嶮しく」なっているかもしれないなと、苦笑した。たかが「水中花」であり、うまく咲かなくても何がどうなるというわけでもないが、戯れ事にせよ、眼前の関心事に一心に集中する「目」を捉えた掲句には鋭いものがある。句の魅力は「水中花」と出ながらも、作者の「目(意識)」がそれを咲かせている人(作者自身であってもよい)の「目」に、すっと自然に逸れているところにある。瞬間的に、視点をずらしている。思えば、後年の稚魚は目を逸らす達人であった。直接の対象の姿かたちから空間的時間的にいきなり「目」を逸らし、そのことによって句に物語性を紡ぎだす作法を得意とした。「からたちの花の昔の昔かな」などは典型だろうが、観念的で言葉の遊戯でしかないとする批判の声もあった。『萩供養』(1982)所収。(清水哲男)


May 1952001

 市電の中を風ぬけ葵まつり過ぐ

                           鈴木鷹夫

祭の季節。今日は浅草・三社祭の町内神輿(みこし)連合渡御、明日は本社神輿渡御。江戸第一の荒祭として知られ、今でも非常に人気が高い。今年も、ものすごい人出になるだろう。ただし夏祭の元祖は京都の「葵祭(賀茂祭)」で、昔は「祭」と言えば葵祭のことだった。こちらは荒祭とは対極にあり、葵で飾った牛車を中心に、平安期さながらの美々しい共奉の列が都大路を粛々と進む。毎年五月十五日に行われているので、句はちょうど今ごろの京都を詠んだものだ。私の個人的なノスタルジーからの選句だが、「昔のいまどき」の京都の雰囲気をよく伝えている。冷房設備のない市電は窓を開けて風を入れながらゆっくりと走り、近くの山に茂る青葉を背景にして、古い町並みの美しさが際立つ。「風ぬけ」とは薫風の心地よさを言っているのと同時に、祭が終わった後のいささかの「気ぬけ」にもかけられているようだ。やがて、じめじめとした雨の季節がやってくる。それまでのしばしの時を思い、作者は祭の後の静けさのなかで「風」を楽しんでいる。土地土地の祭は季節を呼び寄せ人を呼び寄せ、呼び寄せては消えていく。「荷風なし万太郎なし三社祭」(宇田零雨)。いつに変わらぬ賑わいの祭だが、人もまた消えていき、ついに戻ってこない。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)。(清水哲男)




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