♪うみは ひろいな 大きいな 月が のぼるし 日がしずむ。今も一年生の教科書に載っている。




2001ソスN5ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1752001

 新緑や濯ぐばかりに肘若し

                           森 澄雄

だ電気洗濯機がなかったころの句。新緑の候。よい天気なので、妻が盥(たらい)を庭先に持ちだして、衣類を濯(すす)いでいる。一心に洗濯に励む妻の若さが、よく動く白い「肘」に象徴されている。新緑の若さと呼応しあって、眩しいばかりだ。当時は「洗多苦」などとも韜晦された楽ではない「洗濯」だし、妻には単なる家事労働の一つでしかないのだけれど、傍目の夫にはかくのごとくに彼女の姿が認められたというわけだ。眼前の妻の女身の若さを「新緑」で覆い飾るようにしてて賛美している。いま「肘」が象徴であると言ったのは、作者三十年後の句に「野遊びの妻に見つけし肘ゑくぼ」を、私が知っているからでもある。掲句で作者が見ていたのは、実は「肘」ではなくて、彼女の肉体全体のしなやかさなのであった。案外、人は見ているようで、年齢や環境によって見えないところも多々あると言うべきか。いや、見なくてもよいところこそが、多々あるということだろう。さて、余談。国産初の噴流式電気洗濯機を三洋電機が発売したのは、1953年(昭和二十八年)夏のことだった。価格は、民間給与ベースの約三倍の28,500円だ。ちなみに、この年あたりから蛍光灯が普及しはじめる。「電化元年」などと言われ、だんだん庭先での「肘」の動きも、見ようとしても見えないことになった。俳句は、時代の生活実態や慣習、風俗の記録としても面白い。貴重なドキュメントだ。『雪檪』(1954)所収。(清水哲男)


May 1652001

 バナナ下げて子等に帰りし日暮かな

                           杉田久女

語は「バナナ」で、夏。母心だ。同じような句が、細見綾子にもある。「青バナナ子に買ひあたふ港のドラ」。いずれもまだ「バナナ」が貴重品で、なかなか庶民の口には入らなかった時代の句。パイナップルも、そうだった。子供の喜ぶ顔が見たくて奮発してバナナを求め、足早に家路をたどった「日暮」である。ああ、そのような時もありき、と回想している。あの頃は、私も若くて張り切っていた、と……。さて、バナナがいかに貴重だったか。私がちゃんとしたバナナを食べたのは、二十歳を過ぎてからだ。子供のころに食した記憶はない。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』などで存在は知っていたけれど、到底手の届かぬ幻の果実だった。そのかわりに戦時中には、乾燥バナナなる珍品が出回り、これはバナナを葉巻ほどの大きさにまで乾燥させたものである。おそらく、軍隊用の保存食だったにちがいない。食べるとなんとなく甘い味はしたが、なにしろ水気がないのだから、後に知った本物とは相当に味わいが違う。それでも「バナナ」は「バナナ」。戦後になると、それすらも姿を消した。本物は夢だとしても、なんとかもう一度食べたいと思っているうちに、高校時代の立川駅の売店に、かの乾燥バナナが昔のかたちそのままに忽然と登場したときには嬉しかった。昭和二十年代も終わりの頃である。見つけたときには、心臓が早鐘を打った。英語のシールが貼ってあったところからすると、米軍もまた保存食にしていたのだろうか。早速求めて帰り、家族で食べた。「昔と同じ味だね」。父母がそう言い、私は「うん」と言った。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 1552001

 明易し姉のくらしも略わかり

                           京極杞陽

さしぶりに「姉」と、つもる話をした。あれやこれやととりとめもない話をしているうちに、いつしか夜がしらじらと明けそめてきた。午前四時過ぎだ。「ああ、もうこんな時間……」と、弟は姉を寝所へとうながしたところだろう。姉の暮らしぶりが、どうなのか。日頃から気になってはいたのだけれど、ちらりと接したときに単刀直入に聞ける話ではない。姉の暮らしを聞くことは、つまりは彼女の連れ合いの状況を聞くことになるからだ。いかな血をわけた姉弟といえ、いや、だからこそ、なかなか踏み込めない領域である。この場合のようにじっくりと話す機会が訪れても、問わず語りのようにしてようやく、なんとなくわかった(「略わかり」)ということだろう。なんとなくわかった姉の生活に、作者はひとまずホッとしている。そんな微妙な安堵感が、句からにじみ出ている。本当は、もう少し聞きたかった。「明易し(あけやすし)」には、そうした残念の気持ちも含まれていようが、しかし、いくら聞いてもキリがないにはちがいない。潮時の気持ちもあって、作者は明るくなってきた窓を見つめながら、自分に多少とも安堵の念があることを確認して安堵している。杞陽は関東大震災で、この姉を除いて家族全員と死別した人だ。なまじな「姉思い」ではないはずだが、しかし互いに世間の人となった以上は、姉弟の話もかくのごとくに厄介であり、すなわち大人になるとはこういうことを言うのでもある。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)




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