♪夏が来れば思い出す…。もう尾瀬に行くことはないだろう。マイナス志向が懐かしさを増幅する。




2001ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1552001

 明易し姉のくらしも略わかり

                           京極杞陽

さしぶりに「姉」と、つもる話をした。あれやこれやととりとめもない話をしているうちに、いつしか夜がしらじらと明けそめてきた。午前四時過ぎだ。「ああ、もうこんな時間……」と、弟は姉を寝所へとうながしたところだろう。姉の暮らしぶりが、どうなのか。日頃から気になってはいたのだけれど、ちらりと接したときに単刀直入に聞ける話ではない。姉の暮らしを聞くことは、つまりは彼女の連れ合いの状況を聞くことになるからだ。いかな血をわけた姉弟といえ、いや、だからこそ、なかなか踏み込めない領域である。この場合のようにじっくりと話す機会が訪れても、問わず語りのようにしてようやく、なんとなくわかった(「略わかり」)ということだろう。なんとなくわかった姉の生活に、作者はひとまずホッとしている。そんな微妙な安堵感が、句からにじみ出ている。本当は、もう少し聞きたかった。「明易し(あけやすし)」には、そうした残念の気持ちも含まれていようが、しかし、いくら聞いてもキリがないにはちがいない。潮時の気持ちもあって、作者は明るくなってきた窓を見つめながら、自分に多少とも安堵の念があることを確認して安堵している。杞陽は関東大震災で、この姉を除いて家族全員と死別した人だ。なまじな「姉思い」ではないはずだが、しかし互いに世間の人となった以上は、姉弟の話もかくのごとくに厄介であり、すなわち大人になるとはこういうことを言うのでもある。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


May 1452001

 ポケットの蛇放しけり四時間目

                           泉田秋硯

たずらだ。昭和初期に小学生だった作者の「四時間目」は、昼休みの前なのか後だったのか。いずれにしても、授業に飽きてくる時間帯だろう。ここで床に蛇を放てば、当然一騒動持ち上がって、授業は目茶苦茶になる。先生も、まさか誰かのポケットから放たれたとは思わないだろうから、叱られるおそれもない。どこにでも蛇がいた時代ならではの茶目っ気である。かりに掲句を外国語に直訳すると、ただ作者はにやにやしているだけだが、日本語の「けり」には逆に懐旧万感の思いが沈み込んでいる。よくぞ日本に生まれ「けり」だ。この句を読んで、我が人生最大のいたずらは何だったろうと思い返してみた。小心者だから、たいしたいたずらはやっていない。情けない。やっぱり、アレかなあ。やっぱり、アレくらいしか思い出せない。でも、アレは本当に自分でやったのか、それともアイディアだけを提供したのだったか。とりあえず、首尾は上々だった。冬場の授業中、教室中央の大火鉢に、それこそ「ポケット」から「蛇」ならぬ「トウガラシ」を放り込んだだけだったのだが……。しかし、こいつは多分「蛇」よりも効き目があったと思う。あっという間に、全員がクシャミの連発となり涙が止まらなくなり、とても授業どころではなくなってしまった。後に体験した催涙弾と同じほどの効果があった。もとより実行犯は、最初から袖で鼻を押さえているので、みんなが教室から脱出する間に、悠々と証拠は隠滅できたというわけだ。ごめんなさい。『宝塚より』(1999)所収。(清水哲男)


May 1352001

 泉汲むや胸を離れし首飾

                           猪俣千代子

集『堆朱』に所収というが、「俳句」(2001年5月号)の特集「夏の山野」で知った。自註に「一の倉沢から土合へ下りる途中の泉であり、生き返るようであった」とある。と言われても、私には未験の山だから、具体的な光景は浮かんでこない。でも、これはどこの山道だってよいわけで、眼目は「胸を離れし」にある。こしゃくな若者だったころに、私もペンダントをちゃらちゃらさせていたことがあるので、句の概要には身体的に思い当たる。泉を汲むために身をかがめれば、自然に「首飾」は「胸」から垂れて落ちる。当たり前だ。そのことだけを詠んだ句ではあるけれど、どことなく色っぽいのは何故だろう。「胸」のせいもあるだろうが、多分にこの色気は「離れし」という言葉から来ているのだと思う。つまり単に「垂れた」のだが、作者はひっついていた物が「離れ」たと詠んでいる。すべての身体的装飾品は、身体のしかるべきところに位置を占めることで、装飾の役割を果たす。そして、それがしかるべき位置を占めているときには、さながら身体そのもののように感じられる。当人だけではなくて、他人にも、だ。それが、思いがけなくも垂れてしまった。すなわち、一瞬かつ微少ながらも、身体のバランスが崩れたのである。色気とは、そんな身体の微妙なバランスの崩れや揺れに感じられるものではあるまいか。このときに「離れ」とは、「胸」の汗による粘着をも想起させる言葉でもあるので、「垂れ」よりも余計にバランスを崩したことになる。(清水哲男)




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