朝日一面の「花おりおり」を楽しみにしているが、写真が小さすぎる。レイアウトもよろしくない。




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May 1252001

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 1152001

 破れ傘一境涯と眺めやる

                           後藤夜半

破れ傘
井の頭自然文化園
の句を、長い間誤解していた。「破れ傘」を、植物の名前だとは露知らなかったからだ。破れた唐傘を眺めて、作者が「まるで俺の人生のようなものだ」と感じ入っている図だとばかり思っていた。大阪の市井に生き抜いた人の感慨であり、いかにも夜半らしい巧みにして真摯な句だと……。それでも、有季定型の人にしては季語がないのは変だとは感じたのだが、「傘」だから梅雨期だろうと勝手に読んでいた。それが皆さま、大笑い。あるとき、井の頭自然文化園の猫の額ほどの野草園を見るともなく見ていたら、写真の立て札が目に飛び込んできて愕然、驚愕。実は笑うどころではなく、目の前がすうっと暗くなるようなショックを受けた。帰宅して早速二、三の歳時記を開くと、どれにも夏の項目にちゃんと出ていた。「山地の薄暗い林下に生えるキク科の多年草。高さ六十から九十センチ。若葉は傘を半開きにした姿だが、生長するに従い破れた傘を広げたように見える。花よりも草の形がおもしろい」。花は未見だが、なるほどおもしろい形をしている。「破れ傘」としか、命名の仕様がないだろう。さて、こんな具合に正体を知ってしまうと、句の解釈は多少変わってくる。「境涯」への感慨には相違ないが、薄暗い林下に生えているのだから、日陰の人生であり、必ずしも作者自身のそれでなくともよくなってくる。たとえば廓に生きた薄幸の女を想う心が、このように現われたとも読めてくるのである。『破れ傘』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


May 1052001

 大南風黒羊羹を吹きわたる

                           川崎展宏

語は「南風(みなみ)」。元来は船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風(おおみなみ)」と言う。旅先だろうか。作者は見晴らしのよい室内にいて、お茶をいただいている。茶請けには「黒羊羹(くろようかん)」が添えられている。外では猛烈な南風がふきまくり、木々はゆさゆさと揺れざわめいている。近似の体験は誰にもあるだろうし日常的なものだが、それを「黒羊羹」を中心に据えて詠んだワザが、情景をぐんと引き立たせ異彩にした。実際にはどうか知らないけれど、黒い羊羹は素材の密度がぎっしりと詰まっているように見える。人間で言えば沈着にして冷静、どっしりとしている。その感じをいわば盤石と捉え、激しくゆさぶられている周辺の木々と対比させながら、「大南風」の吹く壮観を詠み上げた句だ。動くものは動かぬものとの対比において、より動きが強調される。この場合の動かぬものとは、しかし目の前のちつぽけな羊羹なので、多分に作者のいたずら心も感じられ、激しい風の「吹きわたる」壮観を言ってはいながら、全体としては陽性な句だ。秋の台風だったら、こうはいかない。やはり夏ならではの感じ方になっている。以下、蛇足。羊羹でもカステラでも、あるいは食パンでも、私は端(耳)の部分が好きだ。貧乏性なのだろうか。存外、こういう人は多いようだ。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)




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