仕事場の移転間近で社内ザワザワ。放送局の引っ越しは、放送を休むわけにはいかないので厄介至極。




2001ソスN5ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1152001

 破れ傘一境涯と眺めやる

                           後藤夜半

破れ傘
井の頭自然文化園
の句を、長い間誤解していた。「破れ傘」を、植物の名前だとは露知らなかったからだ。破れた唐傘を眺めて、作者が「まるで俺の人生のようなものだ」と感じ入っている図だとばかり思っていた。大阪の市井に生き抜いた人の感慨であり、いかにも夜半らしい巧みにして真摯な句だと……。それでも、有季定型の人にしては季語がないのは変だとは感じたのだが、「傘」だから梅雨期だろうと勝手に読んでいた。それが皆さま、大笑い。あるとき、井の頭自然文化園の猫の額ほどの野草園を見るともなく見ていたら、写真の立て札が目に飛び込んできて愕然、驚愕。実は笑うどころではなく、目の前がすうっと暗くなるようなショックを受けた。帰宅して早速二、三の歳時記を開くと、どれにも夏の項目にちゃんと出ていた。「山地の薄暗い林下に生えるキク科の多年草。高さ六十から九十センチ。若葉は傘を半開きにした姿だが、生長するに従い破れた傘を広げたように見える。花よりも草の形がおもしろい」。花は未見だが、なるほどおもしろい形をしている。「破れ傘」としか、命名の仕様がないだろう。さて、こんな具合に正体を知ってしまうと、句の解釈は多少変わってくる。「境涯」への感慨には相違ないが、薄暗い林下に生えているのだから、日陰の人生であり、必ずしも作者自身のそれでなくともよくなってくる。たとえば廓に生きた薄幸の女を想う心が、このように現われたとも読めてくるのである。『破れ傘』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


May 1052001

 大南風黒羊羹を吹きわたる

                           川崎展宏

語は「南風(みなみ)」。元来は船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風(おおみなみ)」と言う。旅先だろうか。作者は見晴らしのよい室内にいて、お茶をいただいている。茶請けには「黒羊羹(くろようかん)」が添えられている。外では猛烈な南風がふきまくり、木々はゆさゆさと揺れざわめいている。近似の体験は誰にもあるだろうし日常的なものだが、それを「黒羊羹」を中心に据えて詠んだワザが、情景をぐんと引き立たせ異彩にした。実際にはどうか知らないけれど、黒い羊羹は素材の密度がぎっしりと詰まっているように見える。人間で言えば沈着にして冷静、どっしりとしている。その感じをいわば盤石と捉え、激しくゆさぶられている周辺の木々と対比させながら、「大南風」の吹く壮観を詠み上げた句だ。動くものは動かぬものとの対比において、より動きが強調される。この場合の動かぬものとは、しかし目の前のちつぽけな羊羹なので、多分に作者のいたずら心も感じられ、激しい風の「吹きわたる」壮観を言ってはいながら、全体としては陽性な句だ。秋の台風だったら、こうはいかない。やはり夏ならではの感じ方になっている。以下、蛇足。羊羹でもカステラでも、あるいは食パンでも、私は端(耳)の部分が好きだ。貧乏性なのだろうか。存外、こういう人は多いようだ。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


May 0952001

 新緑やうつくしかりしひとの老

                           日野草城

来に希望のある「新緑」と、未来を喪失しつつある「老」との取り合わせだ。「老」は「おい」と読ませている。発想としては陳腐かもしれないが、実相としては胸に染み入る。類句も多いけれど、そんなことは問題ではない。初夏の緑に「老」が配されることで、鮮やかな「新緑」は、いよいよ鮮やかだ。敗戦後一年目のこのとき、草城はまだ四十五歳だったが、肺炎から肋膜炎と肺浸潤症を併発して、療養生活の身となっていた。心細さも一入(ひとしお)だったろうし、だからこその取り合わせだったろう。かつての「うつくしきひと」は、見舞客だろうか。初夏の陽光に、まぎれもない「老」が映し出された。ああ、人は例外なく老いるのだ。病身は修復できる。だが「老」は、……。その一瞬の感慨が身内を走り、窓外に映える「新緑」へと視線を外したときに、言い古された言葉ながら「世の無常」を感じたということである。才子・草城としては、そんなに良い句だとは思っていなかったはずだけれど、書き留めておかなければいけないとは、強く思っただろう。俳句の魅力を言うときに、このあたりの事情は重要だ。他人にはどう思われようとも、書きつけないでは気が収まらぬ。駄句などと、言いたい奴には言わせておけ。人の日常には、句のような局面が不意に現われる。一句屹立の志も結構だが、屹立していないように見える掲句の「屹立」ぶりを読めないと、ついに俳句の奥行きは理解できまい。俳句は文学に添っているのではなく、人の日常の側にこそ添っている。だから、貴重な「文学」なのだ。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)




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