国の歴史にせよ人のそれにせよ、反省の心もて振り返らずして何のための歴史なのか。曰く、不可解。




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May 0952001

 新緑やうつくしかりしひとの老

                           日野草城

来に希望のある「新緑」と、未来を喪失しつつある「老」との取り合わせだ。「老」は「おい」と読ませている。発想としては陳腐かもしれないが、実相としては胸に染み入る。類句も多いけれど、そんなことは問題ではない。初夏の緑に「老」が配されることで、鮮やかな「新緑」は、いよいよ鮮やかだ。敗戦後一年目のこのとき、草城はまだ四十五歳だったが、肺炎から肋膜炎と肺浸潤症を併発して、療養生活の身となっていた。心細さも一入(ひとしお)だったろうし、だからこその取り合わせだったろう。かつての「うつくしきひと」は、見舞客だろうか。初夏の陽光に、まぎれもない「老」が映し出された。ああ、人は例外なく老いるのだ。病身は修復できる。だが「老」は、……。その一瞬の感慨が身内を走り、窓外に映える「新緑」へと視線を外したときに、言い古された言葉ながら「世の無常」を感じたということである。才子・草城としては、そんなに良い句だとは思っていなかったはずだけれど、書き留めておかなければいけないとは、強く思っただろう。俳句の魅力を言うときに、このあたりの事情は重要だ。他人にはどう思われようとも、書きつけないでは気が収まらぬ。駄句などと、言いたい奴には言わせておけ。人の日常には、句のような局面が不意に現われる。一句屹立の志も結構だが、屹立していないように見える掲句の「屹立」ぶりを読めないと、ついに俳句の奥行きは理解できまい。俳句は文学に添っているのではなく、人の日常の側にこそ添っている。だから、貴重な「文学」なのだ。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


May 0852001

 春と夏と手さへ行きかふ更衣

                           上島鬼貫

治以降、「更衣(ころもがえ)」の風習は徐々にすたれてきて、いまでは制服のそれくらいしか残っていない。江戸期では旧暦四月一日になると、寒かろうがどうであろうが、みないっせいに綿入れから袷に着替えたものだという。非合理的な話ではあるけれど、合理よりも形式を重んじる生活も捨てがたい。形式としての「更衣」は社会的な気分一新の意味を持っていたろうし、いわば初夏に正月気分を据えたようなものである。その他にも種々あった形式行事の数々は、まずは「かたち」があってはじめて中身がそなわるという考えに従っている。権力構造との相似もちらりと頭をよぎる。が、アンチ権力表現としてのこの俳句自体が「かたち」を重んじてきたことを考えると、すべからく形式は精神的インフラに欠かせない条件なのかもしれない。もう少し、時間をかけて考えてみたい。さて、江戸期の俳人・鬼貫の句。今日よりの夏の衣服に手を通しながら、こうやって「春」と「夏」とが「行きかふ」のだなと、季節の移動を「手」の所作から発想しているところが楽しい。つまり「かたち」が季節を移動させているわけだ。其角の有名な句に「越後屋に衣さく音や更衣」がある。「越後屋」は呉服屋、三越の前身。この句でも、「音」という「かたち」が夏の到来を告げている。其角句のほうが一般受けはするだろうが、私は鬼貫の小さな所作から大きな季節感を歌った発想に軍配をあげておこう。他の鬼貫句は、坪内稔典の新著『上島鬼貫』(2001・神戸新聞総合出版センター)で読むことができる。(清水哲男)


May 0752001

 豆飯の湯気を大事に食べにけり

                           大串 章

べ物の句は、美味そうでなければならない。掲句は、いかにも美味かったろうなと思わせることで成功している。あつあつの「豆飯」を、口を「はふはふ」させながら食べたのだ。たしかに「湯気」もご馳走である。ただし「湯気『も』」ではないから、まさかそう受け取る人はいないと思うが、食料の「大事」を教訓的に言っているのではない。念のため。「大事に」という表現は、作者と「豆飯」との食卓でのつきあい方を述べている。「湯気」を吹き散らすようにして食べるよりも、なるべくそのまんまの「湯気」を口中に入れることのほうに、作者はまっとうな「豆飯」との関係を発見したということだ。「大事に」食べなければ、この美味には届かなかったのだ、と……。もっと言えば、このようにして人は食べ物との深い付き合いをはじめていくのだろう。しかも「大事に」食べる意識が涌くのは、若い間には滅多にないことなので、作者は自分のこのときの食べ方をとても新鮮に感じて、喜んでいる。グリーンピースの緑のように、心が雀躍としている。もとより「大事に」の意識の底には、食料の貴重を知悉している世代の感覚がどうしようもなく動いているけれど、私はむしろあっけらかんと受け止めておきたい。せっかくの、あつあつの「豆飯」なのだ。「湯気」もご馳走ならば、この初夏という季節にタイミングよく作ってくれた人のセンスのよさもご馳走だ。想像的に句の方向を伸ばしていけば、どんどん楽しくなる。それが、この句のご馳走だ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)




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