2001N5句

May 0152001

 故旧忘れ得べきやメーデーあとの薄日焼

                           古沢太穂

穂、七十歳の句。「故旧忘れ得べき」は、高見順の小説のタイトルにもある。人生の途次で親しく知りあった人々のことを、どうして忘れられようかという感慨を述べた言葉だ。誰にも、どんな人生にも、この感慨はあるだろう。太穂の属した政党と私は意見を異にするが、そのこととは別に、老闘士のメーデーに寄せた思いは胸に染み入る。メーデーもすっかり様変わりしたことだし、いまとなっては古くさい感傷と受け取られるかもしれぬ。とくに若い読者ほど、そう感じるだろう。無理もない。時代の流れだ。だから私も、ここで句の本意を力んで説明したいとは思わない。わかる人にはわかるのだから、それでいい。代わりに、作者十二歳(1924年・大正十三年)より十年ほどの自筆の履歴を紹介しておきたい。「九月一日。父長患の後四十九歳にて死去。翌年一家離郷(富山)。その後、母を中心にきょうだい六人、東京横浜を転々。新聞配達、住込み店員、給仕、土工、職工、業界新聞記者、喫茶店経営など仕事と住居を変えること枚挙にいとまがない。その間、働きながら昼間夜間いくつかの学校に籍を置いたが、法政大学商業学校、東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業。昭和九年十月十四日妹久子死す」。作者自身は、昨年亡くなられた。「妻の掌のわれより熱し初蛍」。第一句集『三十代』(1950・神奈川県職場俳句協議会)巻頭に「寿枝子病臥」として置かれた一句である。『古沢太穂』(1997・花神社)所載。(清水哲男)


May 0252001

 桐咲くやカステラけむる口中に

                           原子公平

の花は初夏に咲く。周辺はまだ浅緑だ。そこに紫色の花が高く咲くので、遠望すると「けむっている」ように見える。その視覚と、口の中で「けむる」ように溶けていくカステラの味覚とが通いあい、しばし至福の時を覚えている。美花を愛で美味を得て、好日である。このようにゆったりとした心で桐の花を見たいものだが、都会ではもう無理だ。たまさか見かけるのは旅先であり、たいていは心急いでいるので、なかなか落ち着いては見られない。昨年見たのは、所用で訪れた北上市(岩手県)でだった。それも新幹線の駅前にあった木の花だから、とても「けむる」とは言い難く、なんだか標本か資料でも見ているような気がしたものだ。五月のはじめでは、あの駅前の桐もまだ咲いてはいないだろう。桐の花といえば、加倉井秋をに「桐咲けば洋傘直し峡に来る」がある。「峡」は「かい」、山峡だ。昔は都会でも見かけたが、一種の行商に「洋傘直し」という商売があった。町や村を流して歩き、折れた傘の骨の修繕などをする。桐が咲くのは梅雨の前。そこをねらって毎年「傘直し」が現われるというわけだが、風物詩としても面白いし、山峡の村に住む人々のつつましい暮らしぶりもうかがえるようで、よい句だ。この桐の花も、大いに「けむって」いなければならない。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


May 0352001

 江戸住や二階の窓の初のぼり

                           小林一茶

戸住は「えどすみ」。「二階」が江戸を象徴している。草深い一茶の故郷には、おそらく二階家などなかったにちがいない。元禄期頃の絵を見ると、家の前に鯉のぼりではなく、定紋付きの幟(のぼり)を立ててある。これが小さくなって、家の中に飾る紙製の座敷幟となったようだ。鯉のぼりを立てる風習は、江戸も中期以降からはじまったと資料にある。その座敷幟が、二階の窓から突き出ている。「初のぼり」だから、その家の初節句だ。ただそれだけのほほ笑ましい光景ながら、これを粋な小唄のような句と読み捨てるわけにはいかない。流浪の俳諧師であった一茶には、さぞやその幟がまぶしく写ったことだろう。「初のぼり」の家には、堅実な生活というものがある。引き比べて、我が身のいい加減さはどうだ。ちっぽけな「初のぼり」が、「どうだ、どうだ」と我が身に突きつけられているのだ。ここには、芭蕉の「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」の明るさはない。「江戸住や」の「や」には、そんな孤独の心がにじみ出ている。現代でも、マンションのベランダから突き出た鯉のぼりを見て、一茶と同じような思いになる人も少なくないだろう。かつての私がそうだった。最初の失職がこの季節で、アパートに暮らす金もなく、友人宅や曖昧宿を転々としていた身には、たとえ小さな鯉のぼりでも、ひどくこたえた。(清水哲男)


May 0452001

 軒燕古書売りし日は海へ行く

                           寺山修司

山修司の命日が、また巡ってきた。四十七歳か、若かったなア。もうカバーも背のところが千切れてしまい、ボロボロの『われに五月を』を本棚から取り出す。東京は千代田区の作品社から出た最初の詩歌集だ。奥付を見ると定価は200円。このとき、寺山さんはネフローゼで明日をも知れぬ命だったという。中井英夫と版元の田中貞夫が、なんとか生きているうちにと作ってあげた本だ。三人とも亡くなってしまったが、私には三人とも面識があるだけに、この本を開くのがつらい。五月という明るい季節だから、余計につらいのか。寺山さんの葬儀の日も、よく晴れていたっけ。寺山さんの在籍した早稲田大学の応援歌さながらに「紺碧の空」が青山斎場の上にまぶしく広がっていた。生活のために本を売ったことのある読者には、この句の悲しみがわかると思う。本など売れば安いものだから、大切な本でもいくらにもならない。そのいくらでもない金を握りしめて、呆然とした気分で海を見に行く。軒の燕のにぎやかな様子が、作者の呆然を際立たせている。しかし、おそらくは寺山流のフィクションだ。でも、それでよい。文字だけで何事かをなさんとした若き田舎者の懸命の、しかし懸命とは悟られぬフィクションの力と美しさが、掲句にはある。この表現の涌いてきた源を、常識では豊かな才能と言う。思えば、寺山さんは懐かしさをでっち上げる名人だった。どのようなジャンルにあろうとも、遂に感性的に一貫していたのは郷愁だけであった。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)


May 0552001

 粽結ふ母も柱もむかしかな

                           宮下白泉

まは「こどもの日」、昔は「端午(たんご)の節句」。この日の菓子は、「粽(ちまき)」か「柏餅」だ。関西では「粽」、関東では「柏餅」が一般的だと聞いたこともあるが、どうだろうか。掲句の背景には、有名な童謡「背くらべ」(海野厚作詞・中山晋平曲)が意識されている。「柱のきずは おととしの/五月五日の 背くらべ/ちまきたべたべ にいさんが/はかってくれた 背のたけ……」。この歌のせいで、全国の家庭の柱には、どれほどの傷がつけられたことだろう。ご多分に漏れず、我が家の柱も同一の運命にみまわれた。作者の前には粽があり、そんな「むかし」を懐かしんでいる。「粽結ふ母」も傷つけた「柱」も、いまや無し。思えば、あの頃の我が家がいちばんよかったなあ。「むかし」という柔らかな表記が、ほのぼのとした郷愁を誘う。石川桂郎に「一つづつ分けて粽のわれになし」があり、これもさりげない佳句だ。頂き物の粽を家族で分けてみたら、一つ足りなかった。「お父さんはいいよ、子供の頃にいっぱい食べたからね……」。「一つづつ」と強調されているから、粽などめったに手に入らなかった食料難の時代の句だろう。掲句の作者も、もしかしたら同じ状況にあったのかもしれない。俺は良い思い出だけで十分だよ、と。急に粽が食べたくなった。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0652001

 あいまいな空に不満の五月かな

                           中澤敬子

ま、苦笑された方もおられるだろう。本当に、このゴールデンウイークは全国的に「あいまいな空」つづきだった。降るのか、このまま降らないのか。空ばかり見る日が多かった。作者も、旅先で仏頂面をしている。常に天気の崩れを気にしながらの旅は、気持ちも晴れないし疲れる。同じ作者に「不愉快に脳波移動す旅五月」がある。手元の角川版歳時記の「五月」の項には、「陽暦では晴天の日が多く、芍薬・薔薇が開き、河鹿が鳴き、行楽やピクニックの好季節」とある。これが、まずは一般的な五月のイメージだろう。引用されている例句も、みな晴れやかで不機嫌な句はない。その意味で、掲句は事実を感じたままに詠んでいるだけだが、五月へのアングルが珍しいと言えば珍しい。こういう句は、案外、晴れやかな句よりも逆に残るのではないかと思ったりした。少なくとも私は、天気の良くない五月の空を見るたびに思い出してしまいそうだ。ところで、気象庁創立以来百二十年の統計を見ると、今日「五月六日」の東京地方の天気は、晴れた日は五十回だが、三十九回が曇りで、後は雨。雷が発生した日も一回ある。晴れの五十回は、これでも五月の他の日に比べて最も多いのだから、今月の東京の「あいまいな空」の日は、漠然と思っているよりも、かなり多いということである。『現代俳句年鑑・2000』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)


May 0752001

 豆飯の湯気を大事に食べにけり

                           大串 章

べ物の句は、美味そうでなければならない。掲句は、いかにも美味かったろうなと思わせることで成功している。あつあつの「豆飯」を、口を「はふはふ」させながら食べたのだ。たしかに「湯気」もご馳走である。ただし「湯気『も』」ではないから、まさかそう受け取る人はいないと思うが、食料の「大事」を教訓的に言っているのではない。念のため。「大事に」という表現は、作者と「豆飯」との食卓でのつきあい方を述べている。「湯気」を吹き散らすようにして食べるよりも、なるべくそのまんまの「湯気」を口中に入れることのほうに、作者はまっとうな「豆飯」との関係を発見したということだ。「大事に」食べなければ、この美味には届かなかったのだ、と……。もっと言えば、このようにして人は食べ物との深い付き合いをはじめていくのだろう。しかも「大事に」食べる意識が涌くのは、若い間には滅多にないことなので、作者は自分のこのときの食べ方をとても新鮮に感じて、喜んでいる。グリーンピースの緑のように、心が雀躍としている。もとより「大事に」の意識の底には、食料の貴重を知悉している世代の感覚がどうしようもなく動いているけれど、私はむしろあっけらかんと受け止めておきたい。せっかくの、あつあつの「豆飯」なのだ。「湯気」もご馳走ならば、この初夏という季節にタイミングよく作ってくれた人のセンスのよさもご馳走だ。想像的に句の方向を伸ばしていけば、どんどん楽しくなる。それが、この句のご馳走だ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


May 0852001

 春と夏と手さへ行きかふ更衣

                           上島鬼貫

治以降、「更衣(ころもがえ)」の風習は徐々にすたれてきて、いまでは制服のそれくらいしか残っていない。江戸期では旧暦四月一日になると、寒かろうがどうであろうが、みないっせいに綿入れから袷に着替えたものだという。非合理的な話ではあるけれど、合理よりも形式を重んじる生活も捨てがたい。形式としての「更衣」は社会的な気分一新の意味を持っていたろうし、いわば初夏に正月気分を据えたようなものである。その他にも種々あった形式行事の数々は、まずは「かたち」があってはじめて中身がそなわるという考えに従っている。権力構造との相似もちらりと頭をよぎる。が、アンチ権力表現としてのこの俳句自体が「かたち」を重んじてきたことを考えると、すべからく形式は精神的インフラに欠かせない条件なのかもしれない。もう少し、時間をかけて考えてみたい。さて、江戸期の俳人・鬼貫の句。今日よりの夏の衣服に手を通しながら、こうやって「春」と「夏」とが「行きかふ」のだなと、季節の移動を「手」の所作から発想しているところが楽しい。つまり「かたち」が季節を移動させているわけだ。其角の有名な句に「越後屋に衣さく音や更衣」がある。「越後屋」は呉服屋、三越の前身。この句でも、「音」という「かたち」が夏の到来を告げている。其角句のほうが一般受けはするだろうが、私は鬼貫の小さな所作から大きな季節感を歌った発想に軍配をあげておこう。他の鬼貫句は、坪内稔典の新著『上島鬼貫』(2001・神戸新聞総合出版センター)で読むことができる。(清水哲男)


May 0952001

 新緑やうつくしかりしひとの老

                           日野草城

来に希望のある「新緑」と、未来を喪失しつつある「老」との取り合わせだ。「老」は「おい」と読ませている。発想としては陳腐かもしれないが、実相としては胸に染み入る。類句も多いけれど、そんなことは問題ではない。初夏の緑に「老」が配されることで、鮮やかな「新緑」は、いよいよ鮮やかだ。敗戦後一年目のこのとき、草城はまだ四十五歳だったが、肺炎から肋膜炎と肺浸潤症を併発して、療養生活の身となっていた。心細さも一入(ひとしお)だったろうし、だからこその取り合わせだったろう。かつての「うつくしきひと」は、見舞客だろうか。初夏の陽光に、まぎれもない「老」が映し出された。ああ、人は例外なく老いるのだ。病身は修復できる。だが「老」は、……。その一瞬の感慨が身内を走り、窓外に映える「新緑」へと視線を外したときに、言い古された言葉ながら「世の無常」を感じたということである。才子・草城としては、そんなに良い句だとは思っていなかったはずだけれど、書き留めておかなければいけないとは、強く思っただろう。俳句の魅力を言うときに、このあたりの事情は重要だ。他人にはどう思われようとも、書きつけないでは気が収まらぬ。駄句などと、言いたい奴には言わせておけ。人の日常には、句のような局面が不意に現われる。一句屹立の志も結構だが、屹立していないように見える掲句の「屹立」ぶりを読めないと、ついに俳句の奥行きは理解できまい。俳句は文学に添っているのではなく、人の日常の側にこそ添っている。だから、貴重な「文学」なのだ。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


May 1052001

 大南風黒羊羹を吹きわたる

                           川崎展宏

語は「南風(みなみ)」。元来は船乗りの用語だったらしく、夏の季節風のことだ。あたたかく湿った風で、多く日本海側で吹く強い風を「大南風(おおみなみ)」と言う。旅先だろうか。作者は見晴らしのよい室内にいて、お茶をいただいている。茶請けには「黒羊羹(くろようかん)」が添えられている。外では猛烈な南風がふきまくり、木々はゆさゆさと揺れざわめいている。近似の体験は誰にもあるだろうし日常的なものだが、それを「黒羊羹」を中心に据えて詠んだワザが、情景をぐんと引き立たせ異彩にした。実際にはどうか知らないけれど、黒い羊羹は素材の密度がぎっしりと詰まっているように見える。人間で言えば沈着にして冷静、どっしりとしている。その感じをいわば盤石と捉え、激しくゆさぶられている周辺の木々と対比させながら、「大南風」の吹く壮観を詠み上げた句だ。動くものは動かぬものとの対比において、より動きが強調される。この場合の動かぬものとは、しかし目の前のちつぽけな羊羹なので、多分に作者のいたずら心も感じられ、激しい風の「吹きわたる」壮観を言ってはいながら、全体としては陽性な句だ。秋の台風だったら、こうはいかない。やはり夏ならではの感じ方になっている。以下、蛇足。羊羹でもカステラでも、あるいは食パンでも、私は端(耳)の部分が好きだ。貧乏性なのだろうか。存外、こういう人は多いようだ。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


May 1152001

 破れ傘一境涯と眺めやる

                           後藤夜半

破れ傘
井の頭自然文化園
の句を、長い間誤解していた。「破れ傘」を、植物の名前だとは露知らなかったからだ。破れた唐傘を眺めて、作者が「まるで俺の人生のようなものだ」と感じ入っている図だとばかり思っていた。大阪の市井に生き抜いた人の感慨であり、いかにも夜半らしい巧みにして真摯な句だと……。それでも、有季定型の人にしては季語がないのは変だとは感じたのだが、「傘」だから梅雨期だろうと勝手に読んでいた。それが皆さま、大笑い。あるとき、井の頭自然文化園の猫の額ほどの野草園を見るともなく見ていたら、写真の立て札が目に飛び込んできて愕然、驚愕。実は笑うどころではなく、目の前がすうっと暗くなるようなショックを受けた。帰宅して早速二、三の歳時記を開くと、どれにも夏の項目にちゃんと出ていた。「山地の薄暗い林下に生えるキク科の多年草。高さ六十から九十センチ。若葉は傘を半開きにした姿だが、生長するに従い破れた傘を広げたように見える。花よりも草の形がおもしろい」。花は未見だが、なるほどおもしろい形をしている。「破れ傘」としか、命名の仕様がないだろう。さて、こんな具合に正体を知ってしまうと、句の解釈は多少変わってくる。「境涯」への感慨には相違ないが、薄暗い林下に生えているのだから、日陰の人生であり、必ずしも作者自身のそれでなくともよくなってくる。たとえば廓に生きた薄幸の女を想う心が、このように現われたとも読めてくるのである。『破れ傘』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


May 1252001

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 1352001

 泉汲むや胸を離れし首飾

                           猪俣千代子

集『堆朱』に所収というが、「俳句」(2001年5月号)の特集「夏の山野」で知った。自註に「一の倉沢から土合へ下りる途中の泉であり、生き返るようであった」とある。と言われても、私には未験の山だから、具体的な光景は浮かんでこない。でも、これはどこの山道だってよいわけで、眼目は「胸を離れし」にある。こしゃくな若者だったころに、私もペンダントをちゃらちゃらさせていたことがあるので、句の概要には身体的に思い当たる。泉を汲むために身をかがめれば、自然に「首飾」は「胸」から垂れて落ちる。当たり前だ。そのことだけを詠んだ句ではあるけれど、どことなく色っぽいのは何故だろう。「胸」のせいもあるだろうが、多分にこの色気は「離れし」という言葉から来ているのだと思う。つまり単に「垂れた」のだが、作者はひっついていた物が「離れ」たと詠んでいる。すべての身体的装飾品は、身体のしかるべきところに位置を占めることで、装飾の役割を果たす。そして、それがしかるべき位置を占めているときには、さながら身体そのもののように感じられる。当人だけではなくて、他人にも、だ。それが、思いがけなくも垂れてしまった。すなわち、一瞬かつ微少ながらも、身体のバランスが崩れたのである。色気とは、そんな身体の微妙なバランスの崩れや揺れに感じられるものではあるまいか。このときに「離れ」とは、「胸」の汗による粘着をも想起させる言葉でもあるので、「垂れ」よりも余計にバランスを崩したことになる。(清水哲男)


May 1452001

 ポケットの蛇放しけり四時間目

                           泉田秋硯

たずらだ。昭和初期に小学生だった作者の「四時間目」は、昼休みの前なのか後だったのか。いずれにしても、授業に飽きてくる時間帯だろう。ここで床に蛇を放てば、当然一騒動持ち上がって、授業は目茶苦茶になる。先生も、まさか誰かのポケットから放たれたとは思わないだろうから、叱られるおそれもない。どこにでも蛇がいた時代ならではの茶目っ気である。かりに掲句を外国語に直訳すると、ただ作者はにやにやしているだけだが、日本語の「けり」には逆に懐旧万感の思いが沈み込んでいる。よくぞ日本に生まれ「けり」だ。この句を読んで、我が人生最大のいたずらは何だったろうと思い返してみた。小心者だから、たいしたいたずらはやっていない。情けない。やっぱり、アレかなあ。やっぱり、アレくらいしか思い出せない。でも、アレは本当に自分でやったのか、それともアイディアだけを提供したのだったか。とりあえず、首尾は上々だった。冬場の授業中、教室中央の大火鉢に、それこそ「ポケット」から「蛇」ならぬ「トウガラシ」を放り込んだだけだったのだが……。しかし、こいつは多分「蛇」よりも効き目があったと思う。あっという間に、全員がクシャミの連発となり涙が止まらなくなり、とても授業どころではなくなってしまった。後に体験した催涙弾と同じほどの効果があった。もとより実行犯は、最初から袖で鼻を押さえているので、みんなが教室から脱出する間に、悠々と証拠は隠滅できたというわけだ。ごめんなさい。『宝塚より』(1999)所収。(清水哲男)


May 1552001

 明易し姉のくらしも略わかり

                           京極杞陽

さしぶりに「姉」と、つもる話をした。あれやこれやととりとめもない話をしているうちに、いつしか夜がしらじらと明けそめてきた。午前四時過ぎだ。「ああ、もうこんな時間……」と、弟は姉を寝所へとうながしたところだろう。姉の暮らしぶりが、どうなのか。日頃から気になってはいたのだけれど、ちらりと接したときに単刀直入に聞ける話ではない。姉の暮らしを聞くことは、つまりは彼女の連れ合いの状況を聞くことになるからだ。いかな血をわけた姉弟といえ、いや、だからこそ、なかなか踏み込めない領域である。この場合のようにじっくりと話す機会が訪れても、問わず語りのようにしてようやく、なんとなくわかった(「略わかり」)ということだろう。なんとなくわかった姉の生活に、作者はひとまずホッとしている。そんな微妙な安堵感が、句からにじみ出ている。本当は、もう少し聞きたかった。「明易し(あけやすし)」には、そうした残念の気持ちも含まれていようが、しかし、いくら聞いてもキリがないにはちがいない。潮時の気持ちもあって、作者は明るくなってきた窓を見つめながら、自分に多少とも安堵の念があることを確認して安堵している。杞陽は関東大震災で、この姉を除いて家族全員と死別した人だ。なまじな「姉思い」ではないはずだが、しかし互いに世間の人となった以上は、姉弟の話もかくのごとくに厄介であり、すなわち大人になるとはこういうことを言うのでもある。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


May 1652001

 バナナ下げて子等に帰りし日暮かな

                           杉田久女

語は「バナナ」で、夏。母心だ。同じような句が、細見綾子にもある。「青バナナ子に買ひあたふ港のドラ」。いずれもまだ「バナナ」が貴重品で、なかなか庶民の口には入らなかった時代の句。パイナップルも、そうだった。子供の喜ぶ顔が見たくて奮発してバナナを求め、足早に家路をたどった「日暮」である。ああ、そのような時もありき、と回想している。あの頃は、私も若くて張り切っていた、と……。さて、バナナがいかに貴重だったか。私がちゃんとしたバナナを食べたのは、二十歳を過ぎてからだ。子供のころに食した記憶はない。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』などで存在は知っていたけれど、到底手の届かぬ幻の果実だった。そのかわりに戦時中には、乾燥バナナなる珍品が出回り、これはバナナを葉巻ほどの大きさにまで乾燥させたものである。おそらく、軍隊用の保存食だったにちがいない。食べるとなんとなく甘い味はしたが、なにしろ水気がないのだから、後に知った本物とは相当に味わいが違う。それでも「バナナ」は「バナナ」。戦後になると、それすらも姿を消した。本物は夢だとしても、なんとかもう一度食べたいと思っているうちに、高校時代の立川駅の売店に、かの乾燥バナナが昔のかたちそのままに忽然と登場したときには嬉しかった。昭和二十年代も終わりの頃である。見つけたときには、心臓が早鐘を打った。英語のシールが貼ってあったところからすると、米軍もまた保存食にしていたのだろうか。早速求めて帰り、家族で食べた。「昔と同じ味だね」。父母がそう言い、私は「うん」と言った。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 1752001

 新緑や濯ぐばかりに肘若し

                           森 澄雄

だ電気洗濯機がなかったころの句。新緑の候。よい天気なので、妻が盥(たらい)を庭先に持ちだして、衣類を濯(すす)いでいる。一心に洗濯に励む妻の若さが、よく動く白い「肘」に象徴されている。新緑の若さと呼応しあって、眩しいばかりだ。当時は「洗多苦」などとも韜晦された楽ではない「洗濯」だし、妻には単なる家事労働の一つでしかないのだけれど、傍目の夫にはかくのごとくに彼女の姿が認められたというわけだ。眼前の妻の女身の若さを「新緑」で覆い飾るようにしてて賛美している。いま「肘」が象徴であると言ったのは、作者三十年後の句に「野遊びの妻に見つけし肘ゑくぼ」を、私が知っているからでもある。掲句で作者が見ていたのは、実は「肘」ではなくて、彼女の肉体全体のしなやかさなのであった。案外、人は見ているようで、年齢や環境によって見えないところも多々あると言うべきか。いや、見なくてもよいところこそが、多々あるということだろう。さて、余談。国産初の噴流式電気洗濯機を三洋電機が発売したのは、1953年(昭和二十八年)夏のことだった。価格は、民間給与ベースの約三倍の28,500円だ。ちなみに、この年あたりから蛍光灯が普及しはじめる。「電化元年」などと言われ、だんだん庭先での「肘」の動きも、見ようとしても見えないことになった。俳句は、時代の生活実態や慣習、風俗の記録としても面白い。貴重なドキュメントだ。『雪檪』(1954)所収。(清水哲男)


May 1852001

 郭公や寝にゆく母が襖閉づ

                           廣瀬直人

公(かっこう)が鳴いているのだから、昼間である。外光はあくまでも明るく、郭公がしきりに鳴いている。この好日に、老いて病身の母はとても疲れた様子だ。「少し休みたい……」と言い、次の間に「寝に」立った。そろりそろりと、しかしきっちりと、作者の前で「襖(ふすま)」が閉められる。たかが襖ではあるけれど、きっちりと閉められたことにより、残された作者の心は途端に寂寥感に占められた。襖一枚の断絶だ。細目にでも開いていれば、まだ通じ合う空気は残る。しかし、このときの襖を隔てた向こうの部屋は、もはやこちらの部屋とは相いれぬ世界となった。急に、母親が遠く手の届かぬ見知らぬ世界に行ってしまったようだ。いくつになっても子供は子供と言うが、逆もまた真なりで、いくつになっても親は親である。とくに母親は、いつまでも元気に甲斐甲斐しく家事を切り回す存在だと、どんな子供も漠然とそう信じて生きているだろう。だが、決してそうではないという現実を、この真昼に閉ざされた一枚の襖が告げたのである。郭公は、実に明るいような寂しいような声で鳴く。そこで時代を逆転させ、掲句に一句をもって和するとすれば、すなわち「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」(松尾芭蕉)でなければなるまい。ちなみに「閑古鳥(かんこどり)」は「郭公」の異名である。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


May 1952001

 市電の中を風ぬけ葵まつり過ぐ

                           鈴木鷹夫

祭の季節。今日は浅草・三社祭の町内神輿(みこし)連合渡御、明日は本社神輿渡御。江戸第一の荒祭として知られ、今でも非常に人気が高い。今年も、ものすごい人出になるだろう。ただし夏祭の元祖は京都の「葵祭(賀茂祭)」で、昔は「祭」と言えば葵祭のことだった。こちらは荒祭とは対極にあり、葵で飾った牛車を中心に、平安期さながらの美々しい共奉の列が都大路を粛々と進む。毎年五月十五日に行われているので、句はちょうど今ごろの京都を詠んだものだ。私の個人的なノスタルジーからの選句だが、「昔のいまどき」の京都の雰囲気をよく伝えている。冷房設備のない市電は窓を開けて風を入れながらゆっくりと走り、近くの山に茂る青葉を背景にして、古い町並みの美しさが際立つ。「風ぬけ」とは薫風の心地よさを言っているのと同時に、祭が終わった後のいささかの「気ぬけ」にもかけられているようだ。やがて、じめじめとした雨の季節がやってくる。それまでのしばしの時を思い、作者は祭の後の静けさのなかで「風」を楽しんでいる。土地土地の祭は季節を呼び寄せ人を呼び寄せ、呼び寄せては消えていく。「荷風なし万太郎なし三社祭」(宇田零雨)。いつに変わらぬ賑わいの祭だが、人もまた消えていき、ついに戻ってこない。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)。(清水哲男)


May 2052001

 水中花だんだんに目が嶮しくなる

                           岸田稚魚

が発明したのだろうか。江戸期には酒杯に浮かべて「酒中花」とも言ったそうだが、水の中で花を咲かせるという発想は、破天荒かつ叙情的で素晴らしい。大人になってからも、私はときどき買ってきて咲かせている。適当な大きさのコップに水を入れ、さてちゃんと咲いてくれるかどうかと目を凝らすときが楽しい。当たり外れがあって、なかなかきちんとは咲いてくれないので、たしかに「だんだんに目が嶮しく」なっているかもしれないなと、苦笑した。たかが「水中花」であり、うまく咲かなくても何がどうなるというわけでもないが、戯れ事にせよ、眼前の関心事に一心に集中する「目」を捉えた掲句には鋭いものがある。句の魅力は「水中花」と出ながらも、作者の「目(意識)」がそれを咲かせている人(作者自身であってもよい)の「目」に、すっと自然に逸れているところにある。瞬間的に、視点をずらしている。思えば、後年の稚魚は目を逸らす達人であった。直接の対象の姿かたちから空間的時間的にいきなり「目」を逸らし、そのことによって句に物語性を紡ぎだす作法を得意とした。「からたちの花の昔の昔かな」などは典型だろうが、観念的で言葉の遊戯でしかないとする批判の声もあった。『萩供養』(1982)所収。(清水哲男)


May 2152001

 男女蟇の前後を分れ通る

                           ねじめ正也

者は、東京の高円寺で乾物屋を営んでいた。いつも必然的に、店の奥から通りの様子を見ていることになる。おっ、でっかい「蟇(がま)」公が出てきたな。しかも、通りの真ん中に平然とうずくまってしまった。こいつは見物(みもの)だ。行き交う人が、どんな反応するか。ヒマな店主としては、こんな瑣事でも娯楽になる。見ていると、折から通りかかったカップルが、これまた平然と「前後を分れ通って」行ってしまった。なあんだい、「キャッ」くらいは言ったらどうなんだいと、作者はがっかりしている。この「前後を」に注目。「左右を」ではない。つまり、うずくまった蟇は、道に添った方向に頭を向けているのではなくて、作者の方を向いているのだ。尻を向けているとも読めるが、それでは面白くない。せっかく目と目を合わせられる位置にいるのに、蟇はたぶん瞑目しており(いつもそのように見える)、作者のがっかりも互いの目線では伝わらない。独り相撲だったな。そこで、この句がポッとできた。昔の高円寺という郊外の町の夕暮時の雰囲気が、よく出ている。私はこの店を実際に知っているので、余計にそう感じるのかもしれない。いまは、子息のねじめ正一君の小説の題名から採った「高円寺純情商店街」と通りの名前も変わったけれど、ここは焼けなかったので戦前と同じ狭い道幅である。でも、もう蟇は出ないだろうな。1955年(昭和三十年)の作。『蝿取リボン』(1991)所収(清水哲男)


May 2252001

 かたつむりたましひ星にもらひけり

                           成瀬櫻桃子

石のような句だ。「かたつむり(蝸牛)」に「たましひ」があるなどとは考えもしなかったが、このように詠まれてみると、確かに「たましひ」はあるのだと説得される。それも「星」にもらったもの、星の雫(しずく)のようなちっちゃな「たましひ」……。固い巻き貝状の身体を透かして、ぼおっと灯っているように見える「たましひ」なのだ。蝸牛の目は、ただ明暗を判別できる機能しかないと言うが、星にもらった「たましひ」の持ち主だから、それで十分なのである。「角だせ槍だせ 頭だせ」とはやし立てられようとも、怒りもせず苦にもせず、静かに大切に「たましひ」を抱いて生きていく。小賢しい人知をはるかに越えて、一つの境地を得ているのだ。作者が「かたつむり」の「たましひ」を詠むについては、おそらく次の句のような身辺事情が関わっているだろう。「地に落ちぬででむし神を疑ひて」。前書に「長女美奈子ダウン氏症と診断さる」とある。そして、また一句。前書に「美奈子二十二歳にて中学卒業」とあって「花冷や父娘にことば少なくて」。しかし、この事情を知らなくても、掲句の透明な美しさはいささかもゆるぐものではない。『素心』(1978)所収。(清水哲男)


May 2352001

 蒼き胸乳へ蒼き唇麦の秋

                           夏石番矢

ガとポジの対比の構図が印象深い。画家の色彩で言えば、ピカソの青(蒼)とゴッホの黄が一枚の絵に塗られている感じだ。「蒼き胸乳(むなぢ)へ蒼き唇」とは、男女相愛の図か、それとも授乳のそれだろうか。どちらに読むかは読者の想像力にゆだねられているが、前者とすれば、いわば「頽廃と健全」との対比となろうし、後者ならば「貧富」の差を象徴的に浮き上がらせた句と読める。私は、初見では前者と読んだ。しかし考え直して、あえて後者と読んでみると、貧しさゆえに満足に母乳の出ない乳首に、本能的に「唇」を寄せる赤子の姿が痛々しい。と同時に、蒼き「口」ではなく「唇」としたところに、なおさら本能の生々しさを感じさせられる。窓外一面に熟れて波打つ麦は、この母子には無縁の作物なのである。いずれにしても、テーマは動物としての人間の哀しみだろう。明暗を対比させた句は珍しくないが、単に明暗の対比に終わることなく、一歩進めて本能を繰り出すことにより、人間存在のありようを確かに言い止めている。これからの梅雨を控えて、農家は忙しくなる時期だ。麦は「百日の蒔き期に三日の刈り旬」と言う。麦畑が光彩を放つ季節だけに、掲句の「蒼」の鈍い光が、いよいよ重く胸に沁み入る。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


May 2452001

 青嵐おお法螺吹きをくつがえす

                           三宅やよい

快痛快。「おお」は「大」とも読めるが、感嘆詞として読むほうが面白い。日頃から大言虚言を吐きつづけてビクともしない憎たらしい奴が、折からの「青嵐」に見ん事ひっくり返されちゃった。ザマア見やがれ、なのである。「なぎ倒す」などではなく「くつがえす」と言ったのは、むろん「論理を『くつがえす』」という概念が作者の意識にあるからだ。この句は実景として「法螺(ほら)吹き」がひっくり返った様子を想像することもできるし、比喩として「法螺吹き」が強力かつ精密な有無を言わせぬ論理(青嵐)によってやり込められたと読むこともできる。いや、その実景と比喩が重なって喚起されるから面白いと言うべきだろう。この題材にしては、少しの陰湿さも感じさせないところも素敵だ。同じ作者に「リリーフは放言ルーキー雲の峰」がある。口ばかり達者な「ルーキー」というのも、まことに可愛げがなく憎たらしい。そいつが、ついに「リリーフ」に出てきた。「ああ、こりゃもうアキまへん」と、作者は天を仰いだ。天には、モクモクと入道雲が涌き出ている。にわかに暑さが実感され、ゲームへの集中力が切れてしまった。さあて、ボチボチ引き上げるとするか。『玩具箱』(2000)所収。(清水哲男)


May 2552001

 四百の牛掻き消して雹が降る

                           太田土男

事で出かけたグランド・キャニオンで、猛烈な雹(ひょう)に見舞われたことがある。鶏卵大と言うと大袈裟だが、少なくとも大きなビー玉くらいはあった。そいつが一天にわかに掻き曇ったかと見るや、ばらばらっと叩きつけるように降ってきた。やばいっ。幸い近くにあったモーテルに逃げ込み、持っていた8ミリカメラを夢中で回した。あのときのフィルムは、まだ家のどこかにあるはずだが……。降っていた時間は、せいぜい十分ほどだったろうか。止むとすぐに、嘘のような青空が広がった。歳時記などで「雹」の解説を見ると、人畜に危険なこともあると書いてあるが、本当だ。掲句の舞台はむろん国内で、自註によると栃木の牧場である。日本でも、こんなに猛烈な雹が降る土地があるとは知らなかった。「四百の牛」とはほぼ実数に近いとも読めるが、私は「たくさんの牛」と読んだ。「四百四病」「四百余州」と言うように、「四百」は多数も意味する。そのたくさんの牛たちが、いっせいに見えなくなるほどに降るとは、なんたる豪快さ。恐いというよりも、むしろ小気味のよい降りだったろう。自然を満喫するとは、こういうことに違いない。身辺雑記的人事句も悪くはないが、このような句に「掻き消され」てしまうのは止むを得ないところである。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


May 2652001

 汗ばみて加賀強情の血ありけり

                           能村登四郎

かっているのだ。わかってはいても、つい「強情」を張り通してしまう。気質かなあと、作者は前書きに「金沢はわが父の生地」と記した。傍目からすれば、強情は損と写る。何もつまらないことで意地を張る必要はあるまいにと、見える。このあたりが人間の不可解さで、強情を張る当人は必死なのだ。それもわかりながらの必死なのだから、すこぶる厄介である。江戸っ子のやせ我慢なども同類で、気質には地域的な歴史や環境にも大いに影響されるという説もあるけれど、加賀や江戸の人すべてが強情でないことも明らかだ。負けず嫌いや一本気な人はどこの土地にもいるし、負けるが勝ちさと嘯く人だってどこにでもいる。そんなことはわかっているのだが、しかし自分の強情癖は直らない。我と我が気質をもてあましつつ、とりあえず三十代の作者は、血の地方性に寄りかかってみたかったという句だろう。ちなみに、自身は東京生まれである。作者の能村登四郎氏は、一昨日(2001年5月24日)九十歳で亡くなられた。敗戦後まもなくの句に「長男急逝六歳」と前書された「逝く吾子に万葉の露みなはしれ」という痛恨の一句がある。半世紀ぶりにお子さんと会えたならば、さすがの強情も出てこないだろうとは思うけれど……。合掌。『人間頌歌』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


May 2752001

 黄金の蓮へ帰る野球かな

                           摂津幸彦

者は「蓮」を「はちす」と古名で読ませている。この句に散文的な意味を求めても、無意味だろう。求めるのはイメージだ。そのイメージも、すっと目に浮かぶというようなものではない。「黄金の蓮」はともかく、句の「野球」は視覚だけでは捉えられないイメージだからだ。強いて定義するならば、全体のどの一つが欠けても、野球が野球として成立しなくなる全ての「もの」とでも言うべきか。ここには人や用具や球場の具体も含まれるし、ルールや記録の概念も含まれるし、プレーする心理や感情の揺れや、むろん身体の運動も含まれている。その「野球」の一切合切が「黄金の蓮」へと帰っていくのだ。帰っていく先は、すなわち蓮の花咲く極楽浄土。目には見えないけれど、作者は全身でそれを感じている。句作の動機は知る由もない。が、たとえば生涯に二度と見られそうもない良いゲームを見終わった後の感懐か。試合の余韻はまだ胸に熱いが、もはやゲームが終わってしまった以上、その「野球」は永遠に姿を消してしまう。死ぬのである。いままさにその「野球」の全てが香気のように立ちのぼつて、この世ならざる世界に帰っていくところだ。いまひとつ上手に解説できないのは口惜しいが、好ゲームが終わって我ら観客が帰るときに、ふっと胸中をよぎる得も言えぬ満足感を、あえて言語化した一例だと思った。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)


May 2852001

 茄子転がし妻の筆算声に出づ

                           米沢吾亦紅

方、買い物から帰ってきた妻が、買ったものの総額を計算している。昔は、現代のスーパー・マーケットのようにレシートをくれるわけではないので、値段を忘れないうちに計算しておく必要があった。後で、家計簿に転記するためだ。その「忘れないうちに」の緊急性が「茄子転がし」によく言い止められている。買い物篭から茄子が転がり出るほどだから、買い物の量も普段より多かったにちがいない。それをパッパッと手早く正確に計算するには、「ええっと、137円足す258円は……」のように声を出しながら確認するほうがやりやすい。べつに妻が計算が苦手というのではなく、経験から自然に出てきた知恵なのである。なんでもない情景だが、夕刻の主婦の忙しさを描いて秀逸だ。同時に、日々事もなき平和な家庭の雰囲気も漂ってくる。男性版「台所俳句」というところ。最近はパソコン用の家計簿も出回っており、ずいぶんと記帳も楽になったはずだが、レシートがもらえるだけに、かえってその日のうちに記帳する人は減ったかもしれない。何日分かをまとめて打ち込もうと思っているうちに、レシートは溜まる一方。なんてことになっているのは、あながち我が家だけとも思えないのですが。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2952001

 鴨居に頭うつて坐れば水貝よ

                           波多野爽波

波は長身だった。「寝そべりてわが長身や楝咲く」がある。「楝(おうち)」はセンダンの古名で、夏に咲く。しかし、いかな長身といえども、普通の家の鴨居(かもい)に頭をぶつけることは稀だろう。長身の人は日頃から腰をかがめるなどして、それなりに用心しているからだ。私は「船遊び」の図だと見る。納涼船の部屋の鴨居ならば、普通の背丈の人でも、少し腰をかがめないと入れない。もちろん作者もかがめたのだが、見当が狂った。いきなりガツーンと来て、くらくらっとなった。打ったデコチンに手を当てて、とにかくよろよろと坐り込む。しばらく目を閉じて痛みをこらえ、おさまりかけたので目を開けてみると、好物の「水貝(みずがい)」がクローズアップされて目に入ってきたというのだ。おお「水貝よ」。泣き笑いの感じがよく出ていて、とぼけた可笑しさがある。こんなことまで句にしてしまうところが、爽波一流の諧謔精神の発露と言えよう。ちなみに、「水貝」は新鮮な生アワビの肉を賽の目に切り、氷片を浮かせて肉をしめ、塩を少々振った料理だ。ワサビ醤油やショウガ酢などで食べる。夏の季語。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


May 3052001

 ほととぎす晴雨詳しき曽良日記

                           大串 章

蕉『おくのほそ道』の旅に随行した曽良の日記は有名だ。しかし、『曽良旅日記』を単独で読み進める人は少ないだろう。たいていが『おくのほそ道』と場所を突き合わせながら読む。芭蕉の書いていない旅それ自体のディテールがよくわかり、いっそう臨場感が増すからだ。さて掲句だが、突然「ほととぎす」の鳴く声が聞こえてきた。そこでふと『ほそ道』の句を思い出したのだ。殺生石の件りに出てくる「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」である。手綱を取る馬方に短冊を望まれ、上機嫌となった芭蕉が「馬をそっちの方に引き向けてくれ、一緒に鳴き声を聞こうじゃないか」と詠んだ句だ。この日はどんな日だったのかと、作者は曽良の日記を開いてみた。いきなり「(四月)十九日 快晴」とある。眼前に、ぱあっと芭蕉たちのいる広野の光景が明るく広がった。作者の窓の空も、たぶん青空なのだ。推理めくが、ここに「快晴」と記されてなければ、この句はなかっただろう。「快晴」のインパクトにつられて、作者は日頃さして気にも留めていなかった旅日記の天気の項を追ってみた。と、実に詳しく「晴雨」の記述があるではないか。前日には地震があり「雨止」、翌日は「朝霧降ル」など。これだけでも後世の芭蕉理解に大いに貢献しているなと、作者はあらためて「曽良日記」の存在の貴重を思ったのである。……この読みは、独断に過ぎるかも知れない。実は掲句に触発されて『曽良旅日記』の天気の項を拾い読みしているうちに、作者は「ほととぎす」に触発されて曽良を開いたのだろうと思い、そうでないと句意が通らないような気になったのだった。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所収。(清水哲男)


May 3152001

 幻が傘の雫を切つてをり

                           真鍋呉夫

れた傘を畳むときに、パッパッと「雫(しずく)」を切る。この動作について考えたこともないが、できるだけ家の中に湿気を持ち込まないようにする知恵だ。知恵とも言えない知恵のようだけれど、見ていると幼児などは切らないから、やはり暮らしのなかで覚えていく実利的知恵の一つではある。ところが、掲句で雫を切っているのは実利とは無関係の「幻」だ。そんなことをしても、何にもならない。その前に、幻に傘の必要はない。が、句の湛えている暗い存在感は気になる。こいつはどこから滲み出てくるのかと、考えた。たとえば幻を故人の姿に見立てれば、一応の筋は通る。しかし、淡泊に過ぎる。もっと、この句は孤独な感じがする。この孤独感は、おそらく「切つてをり」の「をり」に由来するのだろう。「いる」ではなくて「をり」。「いる」だと対象を時空的に客観視することになるが、「をり」の場合は「いま、ここでの行為」と、時空を一挙に作者に引き寄せるからだ。すなわち「幻」とは作者自身のことだと読める。自分のありようを自嘲して「幻」と比喩したとき、無意識に雫を実利的に「切つてを」る自分があさましくも思え、いまここで「切つてを」るうちに自嘲がいや増した瞬間を詠んだ句と取っておきたい。平たく言えば、しょせん「幻」みたいな存在の俺が、何で馬鹿丁寧にこんなことやってんだろう、というところ。そんな当人の滑稽感もあるので、ますます句が暗く孤独に感じられるのではなかろうか。五月尽。間もなく雨の季節がやってくる。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)




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