渡辺白泉の句

April 3042001

 鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな

                           渡辺白泉

葉の季節。軒先に吊るされた「鳥篭」のなかで、鳥が飛ぶ。普通に読んで、平和な初夏の庶民的なひとときがイメージされる。もう少し踏み込んで、青葉の自然界に出るに出られぬ篭の鳥の哀れを思う読者もいるだろう。いずれにしても、このあたりで私たちの解釈は止まる。それで、よし。ところで、この句は敗戦後三年目の作品だ。作者の白泉は、戦前の言論弾圧で検挙された履歴を持つ。戦前句には「憲兵の前で滑つてころんじやつた」「戦争が廊下の奥に立つてゐた」などがある。こういうことを知ってしまうと、解釈は一歩前進せざるを得なくなる。時こそ移れ、時代が如何に変わったとしても、白泉の時代揶揄や社会風刺の心は生きていると思うと、掲句をその流れにおいて読むということになる。すなわち、戦後民主主義批判の句であると……。主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等じゃないかと……。こう読むと、せっかくの美しい青葉の情景も暗転してしまう。イヤな感じになる。俳人はよく「一句屹立」と言う。いわゆるテキストだけで、時代を越えて永遠の生命を得たいという夢を託した言葉だ。その意気は、ひとまずよしとしよう。だが、「そんなことができるもんか」というのが私の考えだ。あのメーテルリンクの教訓劇『青い鳥』の鳥だって、最後には逃げてしまい、いまだに行方不明なのだ。「一句屹立」の行き着くところは、束の間の青い鳥を自前の鳥篭で飛ばそうとすることでしかない。時代が変われば、解釈も変わるのだ。その証拠が、たとえば掲句である。白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)


April 0142002

 万愚節ともいふ父の忌なりけり

                           山田ひろむ

ール・フールズ・デイ。訳して、すなわち「万愚節(ばんぐせつ)」。人間、みんな馬鹿である日。直截に「四月馬鹿」とも。いろいろな歳時記をひっくりかえしてみても、例句は多いのだが、面白い句は少ない。馬鹿を真面目に考えすぎてしまい、つい「まこと」などと対比させたりするからだろう。なかで掲句は、出色だ。実は二年前の今日にも採り上げた句なのだが、当時と違う感想を持ったので、再掲載することにした。命日だから、作者は父親の在りし日のことどもを自然に思い出している。思い出すうちに、その思いを通じて、人の生涯とは何なのかと、漠然とそんなところに思いが至る。そういえば、今日は「万愚節」。「ともいふ」という軽い調子が実に効果的で、父親の忌日の厳粛さをひょいと相対化してみせている。人はみな愚かなのであり、父親もそうだったのであり、そしてもとより我もまた……。作者の泣き笑いめいた心情が、よく伝わってくる。どこか可笑しく、それ以上にどこか哀しい句だ。ところで、四月一日に亡くなった俳人に、西東三鬼がある。1962年没。すかさず、石田波郷は「万愚節半日あまし三鬼逝く」と詠んだ。渡辺白泉は「万愚節明けて三鬼の死を報ず」と、乗り遅れた。両者の句も悪くはないが、掲句の醸し出す情感のこまやかさにはかなわない。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 1582003

 玉音を理解せし者前に出よ

                           渡辺白泉

書に「函館黒潮部隊分遣隊」とある。いわゆる季語はないが、しかし、この句を無季句に分類するわけにはいかない。「玉音」放送が1945年(昭和二十年)八月十五日正午より放送された歴史的なプログラムであった以上、季節は歴然としている。天皇は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」云々と文語文を読み上げたのだから、すっと「理解」するには難しかった。加えて当時のラジオはきわめて感度が悪く、多くの人が正直なところよく聞き取れなかったと証言している。なかには、天皇が国民に「もっと頑張れ」と檄を飛ばしたのだと誤解した人さえいたという。句の「理解」が、どんなレベルでのそれを指しているのか不明ではあるけれど、作者の怒りは真っすぐに直属の上官たちに向けられている。すべての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。軍隊ばかりではなく、子供の学校でも、これを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞くが、殴られはしないが死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら、今度は即刻、お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。この句を、放送を理解できなかった上官が、いつもの調子で部下を脅している情景と読み、皮肉たっぶりの句ととらえる人もいる。が、私は採らない。そんなに軽い調子のものではない。句は、怒りにぶるぶると震えている。『渡辺白泉句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 2362006

 蛍より麺麭を呉れろと泣く子かな

                           渡辺白泉

語は「蛍」で夏。敗戦直後の句だ。掲句から誰もが思い出すのは、一茶の「名月を取てくれろとなく子哉」だろう。むろん、作者はこの句を意識して作句している。とかく子どもは聞き分けがなく、無理を言って親や大人を困らせるものだ。それでも一茶の場合は苦笑していればそれですむのだが、作者にとっては苦笑どころではない。食糧難の時代、むろん親も飢えていたから、子供が空腹に耐えかねて泣く気持ちは、痛いほどにわかったからだ。こんなとき、いかに蛍の灯が美しかろうと、そんなものは腹の足しになんぞなりはしない。それよりも、子が泣いて要求するように、いま必要なのは一片の麺麭(パン)なのだ。しかし、その麺麭は「名月」と同じくらいに遠く、手の届かないところにしかない。真に泣きたいのは、親のほうである。パロディ句といえば、元句よりもおかしみを出したりするのが普通だが、この句は反対だ。まことにもって、哀しくも切ないパロディ句である。あの時代に「麺麭を呉れろ」と泣いて親を困らせた子が、実は私たちの世代だった。腹の皮と背中のそれとがくっつきそうになるほど飢えていた子らは、その後なんとか生きのびて大人になり、我が子には決してあのときのようなひもじい思いをさせまいと、懸命に働いたのだった。そして、気がついてみたら「飽食の時代」とやらを生み出していて、今度は麺麭の「捨て場所」づくりに追われることにもなってしまった。なんという歴史の皮肉だろうか。そしてさらに、かつて麺麭を欲しがって泣いた子らの高齢化につれ、現在の公権力が冷たくあたりはじめたのは周知の通りだ。いったい、私たちが何をしたというのか。私たちに罪があるとすれば、それはどんな罪なのか。『渡邊白泉全句集』(2005)所収。(清水哲男)


December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


April 1242007

 鶯や製茶會社のホッチキス

                           渡辺白泉

年の茶摘は何時から始まるのだろう。スーパーの新茶もいいけれど、静岡からいただく自家製のお茶はすばらしくおいしい。新興俳句時代の白泉は「今、ここに在る現実」をタイムリーな言葉で捉える名人だった。製茶会社も鶯もおそらくは静岡に住んでいた白泉の体験から引き出されたものだろう。最近は機械化されて手揉みのお茶は少なくなったらしいけど、掲句が作られたのは昭和32年。製茶会社も家族分業でお茶を摘んで乾かし、小分けに入れた袋をぱちんぱちんとホッチキスで留めてゆく小さな会社だったろう。裏手の竹林からホーホケキョとうぐいすの声がホッチキスを打つ音に合いの手を入れるように聞こえてくる。そんな情景を想像するにしても句に書かれているのは、鶯と製茶会社のホッチキスだけである。二句一章のこの句は眼前のものをひょいと取り合わせたように思えるけど、おのおのの言葉が読み手の想像を広げるため必然を持って置かれている。鶯の色とお茶の色。ホッチキスとウグイスの微妙な韻。直感で選び取られた言葉を統合する「製茶会社」という言葉が入ってこそ取り合わせの妙が生きる。のんびりした雰囲気を醸し出すとともに、どこかおかしみのあるエッセンスを加えた句だと思う。『渡邊白泉全集』(1984)所収。(三宅やよい)


July 0572007

 湧く風よ山羊のメケメケ蚊のドドンパ

                           渡辺白泉

山明宏が銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』にデビューしたのは17歳のときだった。そして1957年、日本語版『メケメケ』で人気を博した。『メケメケ』はそれがどうしたっていうのだ。と、いうフランス語の最初の2音を連続させたものらしい。『ヨイトマケの唄』を雄々しく歌った青年は『黒蜥蜴』で妖艶な女性に変貌した後、現在の姿と相成ったが、そんな未来を40年前は知る由もなかった。「山羊のメケメケ」は白面の美少年を相手に山羊がメケメケを歌っているとでもいうのか。「ドドンパ」は最近では氷川きよしが歌っていたが、1961年に流行った『東京ドドンパ娘』が元祖だとか。都都逸とルンバを組み合わせたところからこういう呼び名が生まれたようだ。そう言われてみれば膝を軽く折り曲げ腰を落とす踊りの格好が血を吸う蚊とちょっと似ている。そんな憶測や意味づけをはねのけるように、口語口調の言葉のリズムは明るく楽しい。だがこの句には店先や家のラジオから風に乗ってやってくる流行歌、やがては消えてしまう歌に猫も杓子も浮かれかえるバカバカしさへの風刺が感じられる一方、そんな流行のはかなさを哀れに思う気持ちが上五の「湧く風よ」の呼びかけに滲んでいる。60年代といえば「もはや戦後ではない」と、日本の高度成長が開始する時期。戦後、俳壇から遠く距離を置いた白泉ではあったが、見かけの上昇に欺かれることなく現実を見つめ、時代の言葉で切って返す力は衰えてはいない。『渡邊白泉全句集』(1984)所収。(三宅やよい)


October 29102007

 稲無限不意に涙の堰を切る

                           渡辺白泉

の句について福田甲子雄は「昭和三十年の作であることを考えて観賞しなければならないだろう」と、書いている。そのとおりだとは思うが、しかし福田が言うような「食糧事情の悪さ」が色濃く背景にあるとは思わない。「稲無限」はどこまでも連なる実った稲田を指しており、そのことが作者に与えたのは、豊饒なる平和感覚だったのではなかろうか。戦前には京大俳句事件に関わるなど、作者は大きな時代の流れに翻弄され、またそのことを人一倍自覚していたがゆえに、若い頃からの生活は常にある種の緊張感を伴わざるを得なかったのだろう。それが戦後もようやく十年が経ち、だんだんと世の中が落ち着きはじめたころ、作者にもようやく外界に対する身構えの姿勢が溶けはじめていたのだと思われる。そんな折り、豊かに実った広大な稲田は、すなわち平和であることの具体的な展開図として作者には写り、そこで一挙にそれまでの緊張の糸が切れたようになってしまった。この不意の「涙」の意味は、そういうことなのではあるまいか。ここで作者は過去の辛さを思い出して泣いたというよりも、これは思いがけない眼前の幸福なイメージに愕然として溢れた涙なのだと私には感じられる。長年の肩の力が一挙にすうっと抜けていくというか、張りつづけてきた神経の関節が外れたというか……。。そんなときにも、人は滂沱の涙を流すのである。福田甲子雄『忘れられない名句』(2004)所載。(清水哲男)


May 2852008

 石載せし小家小家や夏の海

                           田中貢太郎

太郎は一九四一年に亡くなっているから、この海辺の光景は大正から昭和にかけてのものか? 夏の海浜とはいえ、まだのどかというか海だけがだだっ広い時代の実景であろう。粗末で小さい家がぽつりぽつりとあるだけの海の村。おそらく気のきいた海水浴場などではないのだろうし、浜茶屋といったものもない。海浜にしがみつくようにして小さな家が点々とあるだけの、ごくありきたりの風景。しかも、その粗末な家の屋根も瓦葺ではなく、杉皮か板を載せて、その上に石がいくつか重しのように載っけられている。いかにも鄙びた光景で、夏の海だけがまぶしく家々に迫っているようだ。「小家小家」が打ち寄せる「小波小波」のようにさえ感じられる。何をかくそう、私の家も昭和二十五年頃まで屋根は瓦葺でもトタンでもなく、大きな杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも載っかった古家だった。よく雨漏りがしていたなあ。貢太郎は高知出身の作家。代表作に『日本怪談全集』があるように、怪談や情話を多く書いた作家だった。そういう作家が詠んだ句として改めて読んでみると、「小家」が何やら尋常のもではないような気もして謎めいてくる。貢太郎の句はそれほど傑出しているとは思われないが、俳人との交際もさかんで多くの句が残されている。「豚を積む名無し小駅の暑さかな」という夏の句もある。「夏の海」といえば、渡邊白泉の「夏の海水兵ひとり紛失す」を忘れるわけにはいかない。『田中貢太郎俳句集』(1926)所収。(八木忠栄)


January 0812009

 蓋のない冬空底のないバケツ

                           渡辺白泉

月からしばらく東京では穏やかな晴天が続いた。雲ひとつなくはりつめた空はたたけばキーンと音がしそうだ。人も車も少ない正月は空気も澄んでいて山の稜線がくっきり間近に感じられた。冬空と言ってもどんよりとした雪雲で覆われがちな日本海側の空と太平洋岸の空では様相が違う。掲句の空は冷たく澄み切った青空だろうが、こんな逆説的な表現で冬空の青さを感じさせるのは白泉独特のもの。たたみかけるように続く「底のないバケツ」は「冬空」とのアナロジーを働かせてはいるが、単なる比喩ではない。蓋と底の対比を効かせ、「ない」「ない」のリフレインも調子がいいが「冬空」の後に深い切れがある。見上げた空から身近に転じられた視線の先に「底のないバケツ」が無造作に転がっている。虚から実へ、とめどなく広がる冬青空を見上げたあとのがらんと寂しい作者の心持ちが錆びて底の抜けたボロバケツになって足元に転がっている。『渡邊白泉全句集』(1984)所収。(三宅やよい)


October 04102009

 街燈は夜霧にぬれるためにある

                           渡辺白泉

の句、どう考えてもまっすぐに詠まれたようには思われません。おちょくっているのではないのでしょうか。おちょくられているのは、もちろん歌のありかた。固定的、画一的な抒情と言い換えてもいいかもしれません。「夜霧」といえば「哀愁」ときて、どうしても椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」を思い出してしまいます。本日の句の「ためにある」のところは、そのまま「降るのだ」にあたり、それまでまじめな顔をしていたものが、一気に崩れてしまうことの滑稽さがおり込まれています。まじめに書かれていないものを、まじめに読む必要はないのかもしれませんが、それでもまじめに考えてみる価値はありそうです。とはいうものの、考えるよりも先に、パターン化された抒情に未だぐっときてしまうわたしなどには、わたし自身がおちょくられているような気にもなってしまいます。人になんと言われようと、慕情やブルースという言葉の響きが好きだし、波止場やマドロスの詩だって、もっと読みたいと思ってしまうものは、しかたがありません。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


August 1482011

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

                           渡辺白泉

ころで、明日の「終戦記念日」は秋の季語ですが、「戦争」はどうなのでしょうか。「時の流れ」がどの季節にも限定できないように、「戦争」も同様に、季節からまぬがれているのかもしれません。だからこの有名な句を前にしても、特段、季節の風を感じません。あるいは、生きている者の親密な息のぬくもりが感じられません。ただ廊下があって、その奥があって、そこに戦争が立っているのだなと、書かれたままに読むだけです。それでもその無表情な戦争が、頭の中を去ってゆかないのはなぜなのでしょうか。どれほど巧みに感情を込めた表現も、どんなに大きな叫び声も、とても歯が立たないもの。文学という器には到底押し込めることのできないものを表現しようとすれば、こうしてただ、そのものを立たせているしかなかったのでしょう。見事な句です。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)




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