小手毬が満開だ。菊とは異なり自然に懸崖をなす。鈴をかけたようなので「鈴懸」という優美な異名も。




2001ソスN4ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2642001

 爪深く立てても女夏みかん

                           藤田津義子

前は「夏蜜柑」だけれど、出回るのが春なので春の季語。我が山口県は萩の名産なり。美味なり。しかし、あの剥きにくさには閉口させられる。掲句はそこを詠んだものだが、力いっぱい爪を立ててはみたけれど、そこからニッチもサッチもいかなくなった。そこで、困惑しながら「女」の非力を感じている。「夏蜜柑」を剥くというささやかな行為から、すっと「女」を意識したところが面白い。「立てても」の「も」に注目せざるをえないが、作者は他の日常的な場面でも、しばしば「女」を感じていることになる。それを一般的と言ってよいのかどうか、私にはわからないが……。ところが逆に大の男でも、卓上のちっぽけな瓶の蓋が開けられなかったりする。それが、女性に頼むと簡単に開く。力ではなくて、慣れから来るコツを心得ているからだ。そんなときに私などは、役立たずという意味での「男」を感じてしまう。掲句の作者も、瓶の蓋であれば苦もなく開けられるだろうし、「女」を意識することもないだろう。当然、句など涌いてはこない。多く人は、マイナス・イメージから自分を発見する。ところで、こんな句も見つけた。「憎しみのごと爪立てて夏柑剥く」(後藤綾子)。そうか、ニッチもサッチもいかなくなったら「憎しみ」を援軍に呼べばいいのか……。こういう思いは、「男」にはなかなか起きないものだ。むしろこの句のほうに、私は「女」を感じさせられた。『今はじめる人のための俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 2542001

 乙鳥はや自転車盗られたる空を

                           小川双々子

の場合の「乙鳥」は「つばめ」「つばくら」「つばくろ」いずれの読みでもよいだろう。そんなに長くかかる用事でもないからと、駐輪場には停めずに、ちょっとそのあたりに置いておいた。さて帰ろうかと出てくると、自転車がない。私も盗られたことがあるのでわかるのだが、こういうときには、すぐに盗難にあったとは思わないものだ。置いた場所を間違えたのか、あるいは邪魔なので誰かが移動したのかと、しばし探しにかかる。でも、いくら探しても見当たらない。自分のと似たような自転車に触ってみたりしながら、だんだん盗まれたらしいという懸念が現実化してくる。弱ったなあ。不思議なもので、こういうときには何故か誰もが空をあおぎ見るようだ。と、まぶしい空を滑るように飛んできたのが初「乙鳥」だった。そこで作者は束の間、「はや」こんな季節になったのかと、途方に暮れている気持ちを忘れてしまうのである。燕は、とにかく勢いよく飛ぶ。その勢いが、人の日常的な困惑やら思いやらを、一瞬断ち切るように作用する。作者にはお気の毒ながら、自転車を盗られることで、飛ぶ「乙鳥」の心理的効果がはじめて鮮やかに具象化されたわけだ。おーい「乙鳥」よ、私の「自転車」をどっかで見かけはせなんだかーい……。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 2442001

 夕闇の既に牡丹の中にあり

                           深見けん二

から、牡丹(ぼたん)には名句が多い。元来が外国(中国)の花だから、観賞用に珍重されたということもあるのだろう。大正期あたりに、おそらくは同様の理由から、詩歌で大いに薔薇がもてはやされたこともある。それだけに、現代人が牡丹や薔薇を詠むのは難しい。原石鼎に「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とあるくらいだ。さて、掲句は現代の句。夕刻に近いが、まだ十分に明るい庭だ。そこに咲く牡丹を見つめているうちに、ふと花の「中」に夕闇の気配を感じたというのである。繊細にして大胆な言い当てだ。やがて、この豊麗な花の「中」の闇が周囲ににじみ出て、今日も静かに暮れていくだろう。牡丹の持つぽってりとした質感と晩春の気だるいような夕刻の気分とが、見事に呼応している。上手いなあ。変なことを言うようだが、こういう句を読むと、花を見るのにも才能が必要だと感じさせられる。つくづく、私には才能がないなと悲観してしまう。ちょっとした思いつきだけでは、このようには書けないだろう。やはり、このように見えているから、このように詠めるのだ。さすがに虚子直門よと、感心のしっぱなしとはなった。ちなみに「牡丹」は夏の季語だが、晩春から咲きはじめる。もう咲いている。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)




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