ゴールデンウィーク目前で、世間が浮き足立ってきた。関係ないのに、当方もつられているような気分。




2001ソスN4ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2442001

 夕闇の既に牡丹の中にあり

                           深見けん二

から、牡丹(ぼたん)には名句が多い。元来が外国(中国)の花だから、観賞用に珍重されたということもあるのだろう。大正期あたりに、おそらくは同様の理由から、詩歌で大いに薔薇がもてはやされたこともある。それだけに、現代人が牡丹や薔薇を詠むのは難しい。原石鼎に「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とあるくらいだ。さて、掲句は現代の句。夕刻に近いが、まだ十分に明るい庭だ。そこに咲く牡丹を見つめているうちに、ふと花の「中」に夕闇の気配を感じたというのである。繊細にして大胆な言い当てだ。やがて、この豊麗な花の「中」の闇が周囲ににじみ出て、今日も静かに暮れていくだろう。牡丹の持つぽってりとした質感と晩春の気だるいような夕刻の気分とが、見事に呼応している。上手いなあ。変なことを言うようだが、こういう句を読むと、花を見るのにも才能が必要だと感じさせられる。つくづく、私には才能がないなと悲観してしまう。ちょっとした思いつきだけでは、このようには書けないだろう。やはり、このように見えているから、このように詠めるのだ。さすがに虚子直門よと、感心のしっぱなしとはなった。ちなみに「牡丹」は夏の季語だが、晩春から咲きはじめる。もう咲いている。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


April 2342001

 春尽きて山みな甲斐に走りけり

                           前田普羅

正期の句。大型で颯爽としていて、気持ちの良い句だ。ちょこまかと技巧を凝らしていないところが、惜春という一種あまやかに流れやすい感傷を越えて、初夏へと向かう季節の勢いにぴったりである。雄渾の風を感じる。甲斐の隣国は、信濃あたりでの作句だろうか。この季節に縦走する山々の尾根を眺めていると、青葉若葉を引き連れて、なるほど一心に走っていくように見える。動かぬ山の疾走感。「ああ、いよいよ夏がやってくるのだ」と、作者は登山好きだったというから、さぞや心躍ったことだろう。こういう句を読むと、気持ちが晴れて、今日一日がとても良い日になりそうな気がしてくる。ちょこまかとした世間とのしがらみも、一瞬忘れてしまう。エーリッヒ・ケストナーの詩集『人生処方詩集』じゃないけれど、私には一服の清涼剤だ。ケストナーが皮肉めかして書いているように、「精神的浄化作用はその発見者(アリストテレス)より古く、その注釈者たちよりも有効である」。すなわち、太古から人間の心の霧を払うものは不変だと言うことである。自然とともに歩んできた俳句には、だから精神浄化の力もある。現代俳句も、もう一度、ここらあたりのことをよく考えてみるべきではないか。自然が失われたなどと、嘆いてみてもはじまらない。掲句の自然なら、いまだって不変じゃないか。『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 2242001

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

ハハと笑って、少ししてから神妙な気分に……。掲句は、出たばかりの「俳句研究」(2001年5月号)に載っている宇多喜代子「読み直す名句」で知った。この連載記事は同じ雑誌の坪内稔典のそれと双璧に面白く、愛読している。宇多さんの選句のセンスが好きだ。以下、宇多さんの説明(部分)。「惜春の情とは、本来、自然にわき出るものである。それをあたかも義務のように『必死に』なって春を惜しんでいる。たしかに古い時代のインテリたちは、競って春を惜しむ句を残している。なにごとにも『必死に』になってしまうものを、おかしがっているような句である」。その通りなのだろうが、私の解釈はちょっと違う。実は、そんなに暢気な句ではなくて、自戒の一発ではなかろうか。俳句に夢中になると、季節が気になる。眼前当季に血がのぼり、それこそ必死に季節を追いかけまわす。ひいては季節を追いかける癖がつきすぎて、ブッキッシュな季語にまで振り回され、「季語が季節か、季節が季語か」。なにやら朦朧としている症状に、当人だけは気がつかぬ。そんな自分のありように、はっと気がついたのが折しも暮れの春。おそらくは「惜春」の兼題に難渋しつつ、歳時記めくりつつ、思えば自分には「自然に」春を惜しむ心がないと知ったのだ。したがって、皮肉でも何でもなく、すいっと吐いたのが、この一句。「先人『も』」とやらなかったところが、作者の人柄だ。めったに作句はせねど、毎日このコラムを書いていると、こういうふうにも読んでみたくなる。日曜日だし、いいじゃん……。と、見る間にも、行春を近江の人に越されけり。つまり、ここで神妙になったというわけ。(清水哲男)




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