昨日の邦楽プログラムのうち、最後は華やかな「越後獅子」。うーむ、長唄もいいな。凝りそうだな。




2001ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342001

 春尽きて山みな甲斐に走りけり

                           前田普羅

正期の句。大型で颯爽としていて、気持ちの良い句だ。ちょこまかと技巧を凝らしていないところが、惜春という一種あまやかに流れやすい感傷を越えて、初夏へと向かう季節の勢いにぴったりである。雄渾の風を感じる。甲斐の隣国は、信濃あたりでの作句だろうか。この季節に縦走する山々の尾根を眺めていると、青葉若葉を引き連れて、なるほど一心に走っていくように見える。動かぬ山の疾走感。「ああ、いよいよ夏がやってくるのだ」と、作者は登山好きだったというから、さぞや心躍ったことだろう。こういう句を読むと、気持ちが晴れて、今日一日がとても良い日になりそうな気がしてくる。ちょこまかとした世間とのしがらみも、一瞬忘れてしまう。エーリッヒ・ケストナーの詩集『人生処方詩集』じゃないけれど、私には一服の清涼剤だ。ケストナーが皮肉めかして書いているように、「精神的浄化作用はその発見者(アリストテレス)より古く、その注釈者たちよりも有効である」。すなわち、太古から人間の心の霧を払うものは不変だと言うことである。自然とともに歩んできた俳句には、だから精神浄化の力もある。現代俳句も、もう一度、ここらあたりのことをよく考えてみるべきではないか。自然が失われたなどと、嘆いてみてもはじまらない。掲句の自然なら、いまだって不変じゃないか。『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 2242001

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

ハハと笑って、少ししてから神妙な気分に……。掲句は、出たばかりの「俳句研究」(2001年5月号)に載っている宇多喜代子「読み直す名句」で知った。この連載記事は同じ雑誌の坪内稔典のそれと双璧に面白く、愛読している。宇多さんの選句のセンスが好きだ。以下、宇多さんの説明(部分)。「惜春の情とは、本来、自然にわき出るものである。それをあたかも義務のように『必死に』なって春を惜しんでいる。たしかに古い時代のインテリたちは、競って春を惜しむ句を残している。なにごとにも『必死に』になってしまうものを、おかしがっているような句である」。その通りなのだろうが、私の解釈はちょっと違う。実は、そんなに暢気な句ではなくて、自戒の一発ではなかろうか。俳句に夢中になると、季節が気になる。眼前当季に血がのぼり、それこそ必死に季節を追いかけまわす。ひいては季節を追いかける癖がつきすぎて、ブッキッシュな季語にまで振り回され、「季語が季節か、季節が季語か」。なにやら朦朧としている症状に、当人だけは気がつかぬ。そんな自分のありように、はっと気がついたのが折しも暮れの春。おそらくは「惜春」の兼題に難渋しつつ、歳時記めくりつつ、思えば自分には「自然に」春を惜しむ心がないと知ったのだ。したがって、皮肉でも何でもなく、すいっと吐いたのが、この一句。「先人『も』」とやらなかったところが、作者の人柄だ。めったに作句はせねど、毎日このコラムを書いていると、こういうふうにも読んでみたくなる。日曜日だし、いいじゃん……。と、見る間にも、行春を近江の人に越されけり。つまり、ここで神妙になったというわけ。(清水哲男)


April 2142001

 両手で顔被う朧月去りぬ

                           金子兜太

くはわからないけれど、しかし、印象に残る句がある。私にとっては、掲句もその一つになる。つまり、捨てがたい。この句が厄介なのは、まずどこで切って読むのかが不明な点だろう。二通りに読める。一つは「朧月」を季語として捉え「顔被う」で切る読み方。もう一つは「朧」で切って「月去りぬ」と止める読み方だ。ひとたび作者の手を離れた句を、読者がどのように読もうと自由である。だから逆に、読者は作者の意図を忖度しかねて、あがくことにもなる。あがきつつ私は、後者で読むことになった。前者では、世界が平板になりすぎる。幼児相手の「いないいない、ばあ」を思い出していただきたい。人間、顔を被うと、自分がこの世から消えたように感じる。むろん、錯覚だ。そこに「頭隠して尻隠さず」の皮肉も出てくるけれど、この錯覚は根深く深層心理と結びついているようだ。単に、目を閉じるのとは違う。みずからの意志で、みずからを無き者にするのだから……。掲句では、そうして被った両手の暖かい皮膚感覚に「朧」を感じ、短い時間にせよ、その心地よい自己滅却の世界に陶酔しているうちに「月去りぬ」となって、人が陶酔から覚醒したときの一抹の哀感に通じていく。私なりの理屈はこのようだが、句の本意はもっと違うところにあるのかもしれない。従来の「俳句的な」春月を、あえて見ようとしない作者多年の「俳句的な」姿勢に発していると読めば、また別の解釈も成立する。と、いま気がついて、それこそまた一あがき。『東風抄』(2001)所収。(清水哲男)




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