雨の予報につき、明るい間は仕事に励み、暗くなったら野球に励む。ちぇっ、いつもと同じじゃないか。




2001ソスN4ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2142001

 両手で顔被う朧月去りぬ

                           金子兜太

くはわからないけれど、しかし、印象に残る句がある。私にとっては、掲句もその一つになる。つまり、捨てがたい。この句が厄介なのは、まずどこで切って読むのかが不明な点だろう。二通りに読める。一つは「朧月」を季語として捉え「顔被う」で切る読み方。もう一つは「朧」で切って「月去りぬ」と止める読み方だ。ひとたび作者の手を離れた句を、読者がどのように読もうと自由である。だから逆に、読者は作者の意図を忖度しかねて、あがくことにもなる。あがきつつ私は、後者で読むことになった。前者では、世界が平板になりすぎる。幼児相手の「いないいない、ばあ」を思い出していただきたい。人間、顔を被うと、自分がこの世から消えたように感じる。むろん、錯覚だ。そこに「頭隠して尻隠さず」の皮肉も出てくるけれど、この錯覚は根深く深層心理と結びついているようだ。単に、目を閉じるのとは違う。みずからの意志で、みずからを無き者にするのだから……。掲句では、そうして被った両手の暖かい皮膚感覚に「朧」を感じ、短い時間にせよ、その心地よい自己滅却の世界に陶酔しているうちに「月去りぬ」となって、人が陶酔から覚醒したときの一抹の哀感に通じていく。私なりの理屈はこのようだが、句の本意はもっと違うところにあるのかもしれない。従来の「俳句的な」春月を、あえて見ようとしない作者多年の「俳句的な」姿勢に発していると読めば、また別の解釈も成立する。と、いま気がついて、それこそまた一あがき。『東風抄』(2001)所収。(清水哲男)


April 2042001

 もの問へば接穂くはえてゐたりけり

                           飴山 實

語は「接穂(つぎほ)」で、春。接ぎ木をするときに、砧木(だいぎ)に接ぐ芽の付いた枝のことを言う。「話の接穂がない」などは、ここから出た言葉だ。何やら農作業をしている人に、道でも尋ねたのだろうか。振り向いた人が、接穂を口にくわえていた。ただそれだけのことながら、くわえられた接穂が、あざやかに春の息吹を感じさせる。それも、その人が振り向いた一瞬を捉えての描写なので、余計にあざやかな印象を残す。こうした表現は、俳句でなければ実現できないことの一つだろう。接ぎ木は、いわば夢の実現を目指す伝統的なテクニックである。渋柿の木に甘い柿がなってくれたらと、遺伝子などという考えもない昔の人が、試行錯誤をくりかえしながら開発した方法だ。物事の不可能を表す言葉に「木に竹を接ぐ」があるけれど、これだって、おそらくは試みた人がたくさんいたに違いない。何度やっても、どう工夫しても駄目なので、ついに不可能という結論に達したのだと思われる。現代の品種改良の難題として有名なのは「青いバラ」の実現だ。バラも接ぎ木で改良が重ねられてきたが、経験則での「青いバラ」実現は、木に竹を接ぐような話とされている。そこでどこかの企業がプロジェクトを組んで、遺伝子の側から演繹的に攻めているそうだ(改良途中の花の写真が、新聞に載ったことがある)。でも、夢は失敗の経験を帰納的に積み上げた果てに実現するのでないと、夢そのものの価値が薄れてしまう。「交番でばらの接木をしてゐるよ」(川端豊子)でないと、ね。「夢」を季語にするとしたら、やはり春だ。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


April 1942001

 モヴィールの鳥は睦まぬ三十路かな

                           福島国雄

日に引き続いて、表記に問題のある句。「モヴィール」は「MOBILE」のカタカナ表記だから「モビール」でなければならない。同様に「DOUBLE」を「ダヴル」と誤記した例も、よく見かける。洒落たつもりかもしれないが、「B」と「V」では大違い。それはさておき、不思議な印象を残す句だ。作句年は1973年(昭和48年)。世相的な男女のことで言うと、上村一夫の漫画『同棲時代』が大ヒットして「同棲ブーム」などと喧伝されたころだ。薄暗いアパートの一室で二人がじめじめと暮らすという暗い内容の漫画だったが、それが若者には憧れの生活と写っていたのだから、面白い。しかしそんな生活は二十代のもので、たいがいは結婚していた三十代は大変だった。アパートでのじめじめ生活は一緒でも、なにしろ生活のために稼がなくてはならぬ。子供でもいれば、とにかく律儀に懸命に働くのみ。いったい俺は何をしに生まれてきたのかと、作者と同じく三十路にあった私もたまには考えたが、いつまでも下手な考えに沈んでいるわけにもいかなかった。なるほど、この状態はモビールの鳥に似ていたかもしれない。社会という細い糸に吊られ、風に吹かれて浮遊していた三十代は、一見悠々と生活の軌道に乗っているように見えて、そうではなかった。もはや、睦み合う二十代、つい昨日の青春を遠く離れてしまったという実感があった。そんなことを思い出すと、言い得て妙、たしかにモビールの鳥のようでしかなかった。美術館でカルダーのモビールを見たのも、奇しくもちょうどそのころである。「三十路かな」の詠嘆が、実に苦い。無季句としてもよいが、当歳時記では「鳥交る」で春に分類した。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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