山吹の花が盛りだ。太田道灌の判じ物みたいな故事の舞台は東京・中野だったと言うが、どのへんだろう。




2001ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942001

 モヴィールの鳥は睦まぬ三十路かな

                           福島国雄

日に引き続いて、表記に問題のある句。「モヴィール」は「MOBILE」のカタカナ表記だから「モビール」でなければならない。同様に「DOUBLE」を「ダヴル」と誤記した例も、よく見かける。洒落たつもりかもしれないが、「B」と「V」では大違い。それはさておき、不思議な印象を残す句だ。作句年は1973年(昭和48年)。世相的な男女のことで言うと、上村一夫の漫画『同棲時代』が大ヒットして「同棲ブーム」などと喧伝されたころだ。薄暗いアパートの一室で二人がじめじめと暮らすという暗い内容の漫画だったが、それが若者には憧れの生活と写っていたのだから、面白い。しかしそんな生活は二十代のもので、たいがいは結婚していた三十代は大変だった。アパートでのじめじめ生活は一緒でも、なにしろ生活のために稼がなくてはならぬ。子供でもいれば、とにかく律儀に懸命に働くのみ。いったい俺は何をしに生まれてきたのかと、作者と同じく三十路にあった私もたまには考えたが、いつまでも下手な考えに沈んでいるわけにもいかなかった。なるほど、この状態はモビールの鳥に似ていたかもしれない。社会という細い糸に吊られ、風に吹かれて浮遊していた三十代は、一見悠々と生活の軌道に乗っているように見えて、そうではなかった。もはや、睦み合う二十代、つい昨日の青春を遠く離れてしまったという実感があった。そんなことを思い出すと、言い得て妙、たしかにモビールの鳥のようでしかなかった。美術館でカルダーのモビールを見たのも、奇しくもちょうどそのころである。「三十路かな」の詠嘆が、実に苦い。無季句としてもよいが、当歳時記では「鳥交る」で春に分類した。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


April 1842001

 かたくりの明日ひらく花虔しき

                           石田あき子

い句なのだが、問題なきにしもあらず。「虔しき」の読み方だ。字面から連想するに、おそらく「つつましき」と読んでほしいのだろう。しかし「虔」は、「慎」の字を「つつましい」「つつしむ」と両方に読むようには融通がきかない。訓読みでは「つつしむ」としか読まない。音読みは「敬虔(けいけん)」の「けん」である。初読ではそこに無理を感じるけれど、まだ咲いていない「明日ひらく花」の姿を、あたかも眼前で咲いているように「虔しき」と断言したことで、作者の思いがくっきりと浮き上がった。片栗の花の可憐さの奥にある心映えは、すでに「明日ひらく花」にも見えており、見えているからこその断定である。人品ならぬ「花品」がにじみ出ていると花を詠む気持ちには、私もかくありたいと祈る作者の心が込められているだろう。となれば「慎ましき」ではなくて、祈りの意味のこもった「虔」の字を用いたい。「明日ひらく花」は、どうあっても「敬虔」な姿をしていなければならないのだ。すなわち「虔しき」は、誤用であって誤用にあらずというのが私の結論である。俳句の一文字一文字は視覚的にも命だから、この「虔」の一文字は換えられないだろう。他の文字に取り換えるくらいなら、いさぎよく抹消したほうがよいと作者は思うだろうし、一読者たる私も思う。片栗の花を見るたびに、掲句を思い出すことになりそうだ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 1742001

 戦意なき男がぬつと目借時

                           和湖長六

は眠い。わけても蛙の単調な鳴き声を聞いていると、ついうつらうつらと眠くなってくる。この生理的現象は、さながら蛙に目を借りられたようなものだと言う人がいて、春の季語「(蛙の)目借時」が登場した。変な季語もあったものだが、江戸期には多くの人々のコンセンサスを得られたのだろう。全国、どこでも蛙の単調にして共通な斉唱が聞かれた時代だった。現代人である作者は、蛙の声と関係があるのかないのかは不明だが、とにかくうつらうつらと睡魔に襲われている。寝てはいけないと、みずからを叱咤してみるが、眠いものは眠いのだ。と、そこに「ぬつ」と入ってきたのが「戦意なき男」だったのだから、たまらない。眠気は、いよいよ増すばかりとなった。誰かが訪ねてくれば、たいていは少しは気持ちがしゃきっとするものだ。それが反対に作用していると言うのだから、面白い。「ぬつ」と訪ねてきた男の、ヌーボーとした風貌までが見えるようだ。むろん、お互いにツーカーの仲である。したがって、まったく緊張関係がない。こいつにまで、「目」を借りられちゃいそうだ……。ここで、思い出した。その昔のラジオの生放送中に、相棒の女性(特に名を秘す)がいやに寡黙になったと思ったら、あろうことか、実にすやすやとお眠りになっていた。ということは、彼女にとっての私は、まさに「戦意なき男」だったようだ。そう思われても、たしかに仕方のない男ではありますな、ハイ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)




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