仏生会。赤子にして「天上天下唯我独尊」の気概あり。こっちは何の気概もなく生まれたからなあ…。




2001ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842001

 虚子の忌の写真の虚子の薄笑ひ

                           大野朱香

日、四月八日は高浜虚子の命日。1959年(昭和三十四年)没。「椿壽忌」とも称される。このときに私は大学生だったが、何も覚えていない。新聞は、一面でも大きく扱ったはずだけれど……。掲句は、なんといっても「薄笑ひ」が効いている。作者がどんな写真を見ているのかはわからないが、おそらくは微笑を湛えているであろう一見柔和な表情に、そうではないものを嗅ぎ取っている。小人(しょうじん)どもには、しょせん俺のことなどわかるまい。皮肉と侮蔑が入り交じったような、向き合う者をじわりと威圧するような、そんな表情に見えているのだ。虚子忌の句は掃いて捨てるほどあり、今日もたくさん作られるだろうが、微笑の奥に「薄笑ひ」を読んだ掲句の鮮烈さにかなう句を、他に知らない。しかも作者が、意地悪で作句しているのではないところに注目。虚子を巨人と思うからこその発想で、いささか敬遠気味ではあるとしても、虚子の大きさを的確に言い当てている。俳句的な腰は、ちゃんと入っている。ところで、これはいつかも書いたことだが、俳句では命日をやたらと季語にする風潮がある。人はどんどん死んでゆくから、忌日の季語もどんどん増えていく。反対だ。理由は単純。「○○忌」と作句されても、そんなのいちいち覚えちゃいられないからだ。命日と季節は、第三者には関係がつけられない。したがって、季語とは言えない。頼むから、仲間内だけでやってくれ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 0742001

 銀行に口座開きて入学す

                           堀之内和子

元を遠く離れての大学「入学」だ。仕送りを受けとるために、銀行に口座を開いた。生まれてはじめて自分名義の口座を開き、ぐんと大人になった気分である。独り住まいをはじめるときには、いろいろと揃えなければならないが、いまや銀行口座もその一つというわけだ。アルバイトの賃金も、銀行振り込みが普通だろう。とくに私などの世代には、とても新鮮に感じられる句だ。昭和三十年代の前半に入学した我等の世代には、銀行は遠い存在でしかなかった。いかめしい建物のなかで、ぜんたい何が行われているのかも知らなかった。学生時代には、用事などないから一度も入ったことはない。漠然と、生涯無縁な建物だろうくらいに思っていた。当時の仕送りは、現金書留が普通。配達してくれる郵便屋さんが、神々しく見えた(笑)。貯金するほどの額ではないから、銀行はもとより、切手や葉書を買いに行く郵便局の貯金の窓口とも無縁であった。社会人になってから、生まれてはじめての原稿料を小切手でもらったときに、横線小切手の意味もわからず、それこそはじめての銀行の窓口で赤恥をかいたことがある。給料も現金支給の時代だったので、そんなことでも起きないかぎり、銀行とは没交渉のままでもよかったのだ。学生の分際(失礼)で銀行口座を開くのが一般化したのは、70年代に入ったころからだろうか。こういう句を読むと、つくづく古い人間になったなと思う。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 0642001

 都をどり観給ふ母を見てゐたり

                           大串 章

語は「都踊」で、春。四月の間、京都祇園花見小路の歌舞練場で祇園の舞妓・芸妓が公演する絢爛豪華な踊りである。「都踊でよういやな」の掛け声でも有名だ。明治五年にはじまったというから、歴史は長い。田舎の母親を京都見物に招待した作者は、プランのなかに「都をどり」を組み込んだ。しかし、舞台を母が喜んでくれるかどうか心もとない。おそらく、作者も初見なのだと思われる。母のことが気になって、舞台に集中するどころではない。ちらちらと様子をうかがっているうちに「都をどりまぶしと母の微笑みぬ」と、喜んでくれた。ほっとした。招待とはまことに難しいもので、行きつけの飲屋に友人を誘っても、ちょっとこうした気分になる。ましてや、相手は遠く故郷から上洛してきた母親だ。気に入ってもらわなければ、悔いが残る。そんな気の遣いようが、身にしみて伝わってくる。母親からすれば、立派に成長した息子と並んで、一緒に舞台を観ているだけで十分に幸福なのだろう。だが、息子の側としては、そうはいかない。もっともっと喜ばせたい。喜ぶ顔が見たいのだ。と、このように母を思い遣る作者の心には、読者もほろりとさせられてしまう。他者からみれば、なんでもない光景だ。それゆえに、なのである。「給ふ」という表現も、よく生きている。久しぶりの邂逅であるし、今度会うのはいつのことにになるのかわからない。この気持ちが、ごく自然に「給ふ」と言わしめている。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)




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