「むさしのエフエム」が六周年を迎えた。初日から残っているのは我が番組のみ。いつまで喋れるのか。




2001ソスN3ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2832001

 春昼の指とどまれば琴も止む

                           野沢節子

とに知られた句。あったりまえじゃん。若年のころは、この句の良さがわからなかった。琴はおろか、何の楽器も弾けないせいもあって、楽曲を演奏する楽しさや充実感がわからなかったからだ。句は、演奏を終えた直後の気持ちを詠んでいる。まだ弾き終えた曲の余韻が身体や周辺に漂っており、その余韻が暖かい春の午後のなかに溶け出していくような気持ち……。琴の音は血をざわめかすようなところがあり、終わると、そのざわめきが静かに波が引くようにおさまっていく。弾いているときとは別に、弾き終えた後の血のおさまりにも、演奏者にはまた新しい充実感が涌くのだろう。まことに「春昼」のおぼろな雰囲気にフィットする句だ。ちなみに、このとき作者が弾いたのは「千鳥の曲」後段だった。三十代のころに住んでいたマンションの近所に、琴を教える家があった。坂の途中に石垣を組んで建てられたその家は、うっそうたる樹木に覆われていて、見上げてもほとんど家のかたちも見えないほどであった。日曜日などに通りかかると、よく音色が聞こえてきたものだ。どういう人が教えていて、どういう人が習っているのか。一度も、出入りする人を見たことはない。そのあたりも神秘的で、私は勝手に弾いている人を想像しては楽しんでいた。上手いか下手かは、問題じゃない。ピアノ全盛時代にあって、琴の音が流れてくるだけで新鮮な感じがした。「深窓の令嬢」なんて言葉を思い出したりもした。掲句から誰もが容易に連想するのは、これまたつとに知られた蕪村の「ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ」だろう。こちらは、これから弾くところだろうか。なんとなくだが、蕪村は琵琶を弾けない人だったような気がする。演奏云々よりも、気持ちが楽器の質感に傾き過ぎている。それはよいとしても、演奏者なら楽器を取り上げたとき、こんな気持ちにならないのではないだろうか。つまり、想像句だということ。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


March 2732001

 とりわくるときの香もこそ桜餅

                           久保田万太郎

かにも美味しそうだ。「桜餅」の命が味の良さにあるのはもちろんだが、独特な葉の香りにもある。だから「香もこそ」と言い、それが生きている。「とりわけて」いる段階で、もう「桜餅」は命の輝きを放ちはじめている。食べ物の句は、とにかく美味しそうでなければならない。読んだ途端に、読者が食べたくなるようでなければならぬ。同じ作者による別の一句は「葉のぬれてゐるいとしさや桜餅」というものだ。こちらもとても美味しそうであり、郷愁にも誘われる。万太郎は、よほど「桜餅」が好きだったのだろうか。ところで「桜餅」の定義だが、角川版歳時記に「うどん粉を水に溶いて焼いた皮に、餡を入れて巻き、塩漬けの桜の葉で包んだもの。皮には桜色と白とがあり、桜の葉の芳香が快い。文政年間に江戸向島の長命寺境内で山本新六という人が売り出したのが始まりという」とある。桜餅の定義などはじめてちゃんと読んだが、ええっと思った。菓子類には情け無いくらいにうといので、私だけのびっくりなのだろうけれど、この十年ほどに二個か三個か食した桜餅は、どれも皮はうどん粉(小麦粉)ではなくて、もっとすべすべしていたように思う。少なくとも、皮を焼いたものではなかった。蒸した感じ。となれば、私が食べ(させられ)たのは、元祖とは製法が違ったものだったのだろう。新しい講談社の歳時記に載っている「桜餅」の写真でも、皮は焼いてないように見える。この本では片山由美子さんが「小麦粉と白玉粉を溶いて焼いた薄皮」と説明していて、となれば、すべすべしていたのは白玉粉のせいなのかもしれない。元祖よりも、口当たりをよくした現代版というところか。でも、いまでも焼いた皮の「桜餅」があるとしたら、ぜひとも、我慢してでも(笑)食べてみたい。そんなのは「どこにでもある普通のもの」なのだろうか。「味の味」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


March 2632001

 水温む鯨が海を選んだ日

                           土肥あき子

来「水温む」は、「水ぬるむ頃や女のわたし守」(蕪村)のように、河川や湖沼の水が少しあたたまってきた状態を言った。それを「海」の水に感じているところが異色。しかし、海もむろん「温む」のである。実は、この句は坪内稔典さんの愛唱句だそうで、最近の新聞や雑誌で何度か触れている。「『あっ、そうだ。今は水温む季節なんだ』と気づいた作者は『そうなんだわ。こんな日だったのだわ。昔々、鯨が陸ではなく海で暮す選択をしたのは』と思った。つまり、水に触れたときの感覚が、哺乳類としての動物的感覚を呼び覚まし、同族の鯨へ連想が及んだのである。/私たちのはるかな祖先は水中から陸上へと上がってきた。鯨の化石によると、初期の鯨には小さな後ろ脚の跡があるという。鯨もまた、私たちの祖先と同じように、陸上生活をしていたのか。……」(「日本経済新聞」2001年2月10日付夕刊)。つづけてこの句を知って「『水温む』という季語が私のうちで大きく変わった。鮒から鯨になったという感じ」と書いているが、同感だ。掲句は「水温む」の季語を、空間的にも時間的にも途方もないスケールで拡大したと言える。それも、ささやかな日常感覚から出発させているので、自然で無理がない。「コロンブスの卵」は、このように、まだまだ私たちの身辺で、誰かに発見されるのを待っているのだろう。そう思うと、句作がより楽しみになる。さて、蛇足。スケールで思い出したが、その昔の家庭にはたいてい「鯨尺」という物差しがあった。和裁に使ったものだ。調べてみたら、元々は鯨のヒゲで作った物差しなので、この名前がついたのだという。その1尺は、曲尺(かねじゃく)の1尺2寸5分(約37.9センチ)で、メートル法に慣れた私たちにはややこしい。最近はさっぱり見かけないが、もはや「鯨尺」を扱える女性もいなくなってしまったのだろう。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)




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