「23日、24時間ストライキ断行」とバスの窓に貼ってある。年々、このステッカーが小さくなっていく。




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March 2232001

 春暁亡妹来り酒静か

                           入江亮太郎

中吟。「悼妹」の前書あり。「春暁」は「はるあかつき」と読ませている。春暁の夢の醒め際に、亡き妹が現われた。そのことを思い、妹との交流の日々をしみじみと思い出しつつ、静かに酒を含んでいる図だ。漢字が多く、見た目にゴツゴツしているところは「詩人俳句」の特徴みたいなものだが、この場合にはそれがかえって効果をあげている。かつて「彼方」の詩人として知られた入江亮太郎が本格的に作句をはじめたのは、晩年になってからだという。詩から俳句への道筋は、どのような思いからだったのだろう。詩を書いてきた私にも関心をかき立てられるところだが、遺句集に収められた令夫人の小長井和子さんの文章で、次の美しい解説を読むことができる。「滅びの予感に怖れを抱きつつ、長いあいだ紙の上に詩を書かずにいた入江は、『私に優しかりし人と山川草木水石及び鳥獣蟲魚の印象を記す』とかねて考えていたことを俳句という形式によって実現し、幼馴染みの友人に見せようとした。そしてそれが実際には彼の白鳥の歌となったのである。もはや未来を考えることが無意味となったとき、彼はひたすら幼年時代ににさかのぼって過去を探り、そのイメージを表現することによってしばし病苦を忘れようとしたのだろう。時たまテレビに映し出される沼津駅前の現代化したにぎわいなど、入江にとってはどうでもよかった。彼はただ記憶のなかに止められている美しいふるさとの風物や、懐かしい人々の映像を書きとめ、その記憶の世界を自分と共有しうる友人に贈りたかったのにちがいない。……」(「晩年の入江亮太郎」)。亮太郎は沼津の出身だった。それにしても「もはや未来を考えることが無意味となったとき」という件りには、粛然とさせられる。よほど運がよくないと、私もこうなるだろう。と同時に、この人に「俳句」があって本当によかったと思い、あらためて「俳句という形式」の並々ならぬ魅力に思いが至った。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 2132001

 豆の花どこへもゆかぬ母に咲く

                           加畑吉男

ろりと、させられる。俳句で「豆の花」といえば、春に咲く豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)の花をさす。最近はなかなか見るチャンスもないが、子供の頃には日常的な花だった。小さくて、蝶に似た形をした可憐な花だ。たとえれば、思春期の少女のようにどこか幼いのだが、華やかさも秘めている。清らかさのなかに、あるかなきかのほどにうっすらと兆している豊熟への気配……。その花が、「どこへもゆかぬ母」のために咲いているようだと詠んだ作者は、心優しい「男の子」だ。母はむろん少女ではありえないけれど、しかし、作者は「どこへもゆかぬ」ことにおいて、母に少女に通じる何かを感じているのだと思う。彼女が「どこへもゆかぬ」のは、現実的には周囲への遠慮や気遣いや、あるいは経済的な理由からだろう。そんな母親を日頃見やりながら、たまには羽を伸ばせばよいのにと願っている作者は、この季節になると咲く「豆の花」を、母のために咲いていると感じるようになってきた。このとき、母と花は同じ年齢の少女の友だち同士みたいに写っているのだ。畑の世話をする母親が、花によって慰められてほしいと、揚句での作者の願望もまた、少年のように初々しいではないか。昔の母親たちは、本当に「どこへもゆか」なかった。いつも誰よりも早く起き、風呂も最後に入って、いちばん遅くに床に就いた。大家族の農家の母親ともなれば、睡眠三時間、四時間程度の人も多かったと聞く。いまどきの感覚からすれば、ただ苦労をしに生まれてきたようなものである。そんなお母さんの「ため」に、今年も静かに「豆の花」が咲いたのだ。これが美しくなくて、他のどんな花を美しいと言えるだろう。『合本俳句歳時記・第三版』(1997)所載。(清水哲男)


March 2032001

 口に出てわれから遠し卒業歌

                           石川桂郎

と、口をついて出た「卒業歌」だ。おそらく「仰げば尊し」だろう。しばらく小声で歌っているうちに、遠い日の卒業の頃が思い出された。懐かしい校舎や友人、教師の誰かれのこと……。甘酸っぱい記憶がよみがえる一方で、もう二度とこの歌を卒業式で歌うことのない自分の年齢に、あらためて感じ入っている。「われから遠し」は当たり前なのだが、やはり「われから遠し」と言ってみることで、遠さを客観化できたというわけだ。こういうことは私にもときどき起きて、つい最近の出来事のように思っていたことも、あらためて思い直してみると、長い年月が過ぎていたことにびっくりさせられたりする。卒業で言えば、「仰げば尊し」を歌って中学を出たのも、もう半世紀近くも昔のことになる。式が終わっても校舎を去りがたく、みんながなんとなく居残っているなかで、どういうわけか私は昇降口でハーモニカを吹いていた。しばらく吹いていると、教室にいた女子の一人が「そんな悲しい曲、吹かないでよ」と抗議しに出てきた。何の歌だったかは忘れたけれど、あわてて止めたことを、いまだに思い出すことがある。思い出しては、「われから遠し」の実感を深くする。あのときの女の子は、どうしているだろうか。私にハーモニカを止めさせたことを、覚えているかな。当時はいまと違って、高校に進学する生徒の数も少なかった。クラスの半分以下だった。だから、多くの級友にとっては、中学が最後の学校なのだった。去りがたい気持ちは、痛いほどによくわかる。書いているうちに、急にハーモニカを吹きたくなった。が、とっくになくしてしまった。『新日本大歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)




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