下の絵はがきの写真は、明治末期に撮影されたもの。真ん中へんの花衣の女の子がほほえましいですね。




2001ソスN3ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2132001

 豆の花どこへもゆかぬ母に咲く

                           加畑吉男

ろりと、させられる。俳句で「豆の花」といえば、春に咲く豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)の花をさす。最近はなかなか見るチャンスもないが、子供の頃には日常的な花だった。小さくて、蝶に似た形をした可憐な花だ。たとえれば、思春期の少女のようにどこか幼いのだが、華やかさも秘めている。清らかさのなかに、あるかなきかのほどにうっすらと兆している豊熟への気配……。その花が、「どこへもゆかぬ母」のために咲いているようだと詠んだ作者は、心優しい「男の子」だ。母はむろん少女ではありえないけれど、しかし、作者は「どこへもゆかぬ」ことにおいて、母に少女に通じる何かを感じているのだと思う。彼女が「どこへもゆかぬ」のは、現実的には周囲への遠慮や気遣いや、あるいは経済的な理由からだろう。そんな母親を日頃見やりながら、たまには羽を伸ばせばよいのにと願っている作者は、この季節になると咲く「豆の花」を、母のために咲いていると感じるようになってきた。このとき、母と花は同じ年齢の少女の友だち同士みたいに写っているのだ。畑の世話をする母親が、花によって慰められてほしいと、揚句での作者の願望もまた、少年のように初々しいではないか。昔の母親たちは、本当に「どこへもゆか」なかった。いつも誰よりも早く起き、風呂も最後に入って、いちばん遅くに床に就いた。大家族の農家の母親ともなれば、睡眠三時間、四時間程度の人も多かったと聞く。いまどきの感覚からすれば、ただ苦労をしに生まれてきたようなものである。そんなお母さんの「ため」に、今年も静かに「豆の花」が咲いたのだ。これが美しくなくて、他のどんな花を美しいと言えるだろう。『合本俳句歳時記・第三版』(1997)所載。(清水哲男)


March 2032001

 口に出てわれから遠し卒業歌

                           石川桂郎

と、口をついて出た「卒業歌」だ。おそらく「仰げば尊し」だろう。しばらく小声で歌っているうちに、遠い日の卒業の頃が思い出された。懐かしい校舎や友人、教師の誰かれのこと……。甘酸っぱい記憶がよみがえる一方で、もう二度とこの歌を卒業式で歌うことのない自分の年齢に、あらためて感じ入っている。「われから遠し」は当たり前なのだが、やはり「われから遠し」と言ってみることで、遠さを客観化できたというわけだ。こういうことは私にもときどき起きて、つい最近の出来事のように思っていたことも、あらためて思い直してみると、長い年月が過ぎていたことにびっくりさせられたりする。卒業で言えば、「仰げば尊し」を歌って中学を出たのも、もう半世紀近くも昔のことになる。式が終わっても校舎を去りがたく、みんながなんとなく居残っているなかで、どういうわけか私は昇降口でハーモニカを吹いていた。しばらく吹いていると、教室にいた女子の一人が「そんな悲しい曲、吹かないでよ」と抗議しに出てきた。何の歌だったかは忘れたけれど、あわてて止めたことを、いまだに思い出すことがある。思い出しては、「われから遠し」の実感を深くする。あのときの女の子は、どうしているだろうか。私にハーモニカを止めさせたことを、覚えているかな。当時はいまと違って、高校に進学する生徒の数も少なかった。クラスの半分以下だった。だから、多くの級友にとっては、中学が最後の学校なのだった。去りがたい気持ちは、痛いほどによくわかる。書いているうちに、急にハーモニカを吹きたくなった。が、とっくになくしてしまった。『新日本大歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


March 1932001

 籠の鶏に子の呉れてゆくはこべかな

                           富田木歩

せた竹籠に飼われている鶏に、たまたま通りかかった子供が、そこらへんに生えている「はこべ」を摘んで与え、すっと行きすぎていった。ただそれだけの情景だが、見ていた作者は心温まるものを感じている。この場合に、子供の行為は、公園の鳩に餌をやるそれとは大違いだ。鳩に餌をやるのは鳩を身近に呼び集める目的があってのことで、下心が働いている。句の子供に、そんな下心は微塵もない。といって籠の鶏の身に同情しているというのでもなく、ふっと腹を空かせていそうな気配を感じて、とりあえず「はこべ」を与えたまでのこと。去っていった子供も、すぐにこんなことは忘れてしまうだろう。善行を積んだなど、露思っていない。だからこそ、作者には嬉しいのだ。気配りとも言えぬ気配り、ごく自然で無欲な振る舞い。脚が不自由で一歩も歩行の適わなかった木歩にしてみれば、なおさらに子供のぶっきらぼうな行為が印象深く、頼もしくさえ思えただろう。だから、句になった。べつに木歩の境遇を知らなくても、揚句は味読に値する。誰に教えられずとも、この子のような気持ちを持った子は、昔はたくさんいた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、みんながそうだった。生きとし生けるものとのつきあい方を、自然に身に付けていたのだと回想される。そこへいくと「いまどきの子は……」などと、愚痴を言ってもはじまらぬ。目から鼻へ抜けるような利口な子は、句の作られた大正期よりも圧倒的に多いのだろうが、それがどうしたと居直りたくなる「句の子」のありようではないか。木歩は、関東大震災で非業の死を遂げた。この子は、無事に生き残ったろうか。「死ぬなよ」と、とんでもなく時代遅れの声援を送りたくなる。ちなみに「はこべ」の漢字は「繁縷」などと表記され、読むにはやけに難しい。松本哉編『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』(1989)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます