この寒さの中、部屋のガス暖房が壊れた。風邪が治りかけているというのに。チェッ。…どころじゃない。




2001ソスN3ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1332001

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)


March 1232001

 ふたなぬか過ぎ子雀の砂遊び

                           角川源義

語は「子雀(雀の子)」で春。孵化してから二週間(つまり「ふたなぬか」)ほど経つと、巣立ちする。はじめのうちこそ親について行動するが、それも十日ほどで独立するという。立派なものだ。でも、そこはまだ赤ちゃんのことだから、砂遊びもやはり幼くぎごちない。見守る作者ははらはらしつつも、その健気な姿に微笑を浮かべている。ところで雀といえば、「孕み雀」「黄雀」「稲雀」「寒雀」など季語が多いが、なかに「すずめがくれ(雀隠れ)」という季語がある。春になって萌え出た草が、舞い降りた雀の姿を隠すほどに伸びた様子を言う。載せていない歳時記もあって、元来が和歌で好まれた言葉だからかもしれない。「萌え出でし野辺の若草今朝見れば雀がくれにはやなりにけり」など。一種の洒落なので、使いようによっては野暮に落ちてしまう。成瀬櫻桃子に「逢はざりし日数のすずめがくれかな」の一句あり。どうだろうか。「逢はざりし」人は恋人かそれに近い存在だろうが、現代的感覚からすれば、野暮に写りそうだ。逢わない日数を草の丈で知るなどは、もはや一般的ではない。揚句に話を戻すと、瓦屋根の家がたくさんあったころには、雀の巣も子もよく見かけた。句の砂遊びの姿も、珍しくはなかった。が、いまどきの都会の雀の巣はどこにあるのだろう……。たしかに昔ほどには、雀を見かけなくなってしまった。ここで、石川啄木の「ふと思ふ/ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを/三年聴かざり」を思い出す。「三年(みとせ)」は啄木の頻用した誇張表現だから信用しないとしても、明治期の都会でも雀の少なくなった時期があったのだろうか。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 1132001

 森霞む日付けの赤き日曜日

                           櫛原希伊子

あ、絵になっている。読んだ途端に、実景というよりも、絵を感じた。それも、コンピュータ・グラフィックスで描いたような絵。カレンダーの日曜日の赤い「日付け」が前面にあり、それを通して遠くの森が霞んで見えている。下手くそながら、私はコンピュータの「お絵書きソフト」が好きなので、ついそう思ってしまったのだが、もとより作者にその意識はないはずだ。が、コンピュータを外しても、「日付けの赤き日曜日」というフィルターを通して森を霞ませたところには、モダンなデザイン感覚を感じる。自註で作者が書いているように、日曜日を「赤」としたのは誰なのだろうか。なぜ「赤」なのか。いつごろから行われてきたのだろうか。床屋さんでくるくる廻っている標識の「赤」は動脈、「青」は静脈を意味するそうだが、やはり人体に関連した比喩としての色彩なのだろうか。そう言えば、祝日も「赤」であり、最近のカレンダーでは土曜日も「赤」にしているものも見かけるが、これらは単に日曜日が「休み」という意味からの流用であって、本義の「赤」とは関係はないだろう。でたらめな本義の推測をしておけば、キリストが復活した安息日の日曜日にちなんでの「赤」なのかもしれない。すなわち、十字架で流された血の色だ。ユダヤ教での安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までだから、このあたり、ユダヤ教でのカレンダーでは何色なのだろう。たまたま手元にある中国のカレンダーでも、日曜日は「赤」で表示されている。となれば、宗教とは関係がないのかな。ともあれ、今日は「日付けの赤き日曜日」です。よい一日でありますように。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




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