珍しく風邪を引いた。二年に一度くらい。それも殆どは仕事が休みの土日に引いてきた。ソンな性分也。




2001ソスN3ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1132001

 森霞む日付けの赤き日曜日

                           櫛原希伊子

あ、絵になっている。読んだ途端に、実景というよりも、絵を感じた。それも、コンピュータ・グラフィックスで描いたような絵。カレンダーの日曜日の赤い「日付け」が前面にあり、それを通して遠くの森が霞んで見えている。下手くそながら、私はコンピュータの「お絵書きソフト」が好きなので、ついそう思ってしまったのだが、もとより作者にその意識はないはずだ。が、コンピュータを外しても、「日付けの赤き日曜日」というフィルターを通して森を霞ませたところには、モダンなデザイン感覚を感じる。自註で作者が書いているように、日曜日を「赤」としたのは誰なのだろうか。なぜ「赤」なのか。いつごろから行われてきたのだろうか。床屋さんでくるくる廻っている標識の「赤」は動脈、「青」は静脈を意味するそうだが、やはり人体に関連した比喩としての色彩なのだろうか。そう言えば、祝日も「赤」であり、最近のカレンダーでは土曜日も「赤」にしているものも見かけるが、これらは単に日曜日が「休み」という意味からの流用であって、本義の「赤」とは関係はないだろう。でたらめな本義の推測をしておけば、キリストが復活した安息日の日曜日にちなんでの「赤」なのかもしれない。すなわち、十字架で流された血の色だ。ユダヤ教での安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までだから、このあたり、ユダヤ教でのカレンダーでは何色なのだろう。たまたま手元にある中国のカレンダーでも、日曜日は「赤」で表示されている。となれば、宗教とは関係がないのかな。ともあれ、今日は「日付けの赤き日曜日」です。よい一日でありますように。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


March 1032001

 春山を越えて土減る故郷かな

                           三橋敏雄

さしぶりに「故郷」を訪れた。春の山には、昔と変わらず木の芽の香りが漂い、鳥たちも鳴いている。少年時代に戻ったような気分で山を越えると、しかしそこに見えてきたのはすっかり「土」の減っている「故郷」であった。道路は舗装され、田畑もめっきり減ってビルや住宅になり、すっかり景観が変わってしまっている。さながら今浦島の心地……。「春山」が昔と同じたたずまいを保っているだけに、よけいに違和感がある。まさに「土減る故郷」と言うしかないのである。作者の故郷は東京の端の八王子だが、句の様子は、日本全国ほとんどの地に当てはまるだろう。我が故郷の村では「兎追いしかの山」すらも自衛隊の演習地と化し、山自体が人工的に形を変えられ生態系も激変したので、この句も成立できないありさまだ。成立しないといえば、国木田獨歩に、都会で一旗揚げようと村を飛びだした男が、失意のうちに故郷に舞い戻るという短編があった。揚句とは違い、故郷は昔と変わらぬ田舎のままであり、子供たちが昔の自分と同じように、同じ川で魚を釣っている。この小説で最も印象的なのは、その子供たちの顔や姿から、男が「どこの子」かを当てるシーンだ。みんな、かつて自分と一緒に遊んだ友だちの子供なので、すぐに面影からわかったのである。「土減る故郷」では、もはやこういうことも起こらない。「故郷」への切ない挽歌である。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)


March 0932001

 残雪に月光の来る貧乏かな

                           小川双々子

つまでも薮陰などに残っている雪は、それだけでも貧乏たらしい。ましてや青白い月光を浴びるとなると、作者のように、おのれの貧乏ぶりまでをもあからさまにされたように気恥ずかしくもあり、ぐうの音も出ない感じになる。貧乏を嘆いているというよりも、月光の力でおのれの貧乏を再確認させられた心持ちなのだ。残雪と貧乏とは何の関係もないのだけれど、貧すれば何とやらだ。下うつむいて暮らす人の目には、いずれは消えゆく残雪だからこそ、ことさらにシンパシーを覚える。自然に、そうなる。無関係なものにも、勝手なワタリをつけてしまう。だから、それを煌々と照らす月は、当然のように無情と写る。とは言え、この句にはうじうじとした陰湿さがない。あっけらかんとしていて、むしろ面白い、滑稽だ。それは「貧乏かな」と意表を突く表現によるわけだが、もはや「かな」と力なく言うしかない作者も、心の片隅では苦笑(微笑に近いかな)しているにちがいない。したがって、作者に心の貧乏はないと読める。えてして金持ちは比較級で語りたがるが、実は貧乏人も同じなのだ。どれくらいに貧乏かを、互いに意地で競い合ったりすることすらある。そういうところが揚句には微塵もなく、すこぶる気持ちがよろしい。子供の頃に赤貧を味わった私には、自然にそう写る。作者の貧乏の程度を推理しようなんて、野暮な振る舞いには及びたくない。比較級抜きで「貧乏かな」の、残雪のように冷たくとも、月光のように清々しい滑稽を味わうのみである。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)




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