三月は別れの月。でも、小企業ゆえ別れなくてもすむ。そのかわり、四月の出会いも無し。日々淡々…。




2001ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132001

 時刻きゝて帰りゆく子や春の風

                           星野立子

が子のところに遊びに来ていた子供が「おばさん、いま何時ですか」と聞きに来た。時刻を告げてやると、「もう帰らなくては……、ありがとうございました」と帰っていった。その引き上げ方が、「春の風」のように気持ちの良い余韻を残したのである。日は、まだ高い。もっと遊んでいたかっただろうに……。躾けのゆきとどいた清々しい良い子だ。昔の子供は母親から帰宅すべき時間をきつく言い含められて、遊びに出かけたものだ。無論いまでもそうだろうけれど、しかし、昔の門限はとてつもなく早かったように思う。日のあるうちに帰らないと、叱責された。親が帰宅時間を言い含めたのは、多く他家に迷惑をかけたくないからという理由からだったが、本音は外灯もろくにない暗い道を一人で帰らせるのが不安だったからではあるまいか。かなりの都会でも、夜道はとても暗かったのだ。そんな子供にとって気になるのは「時刻」であるが、現在のように子供部屋にまで時計があるわけではない。一家の茶の間に、柱時計一台きりが普通。だから、しょっちゅう「おばさん」に聞かなければならない。私も経験があるけれど、帰りたくなくて「時間よ、止まれ」くらいの思いで「おばさん」に聞いたものだった。逆に大人になってからも、表で遊んでいる見知らぬ子に「いま何時ですか」とよく聞かれたが、最近ではそういうこともなくなった。みんな腕時計くらいは持っているし、第一、表で遊ぶ子供たちが少なくなってしまったからである。ちなみに、掲句は1939年(昭和十四年)の作。『続立子句集第一』(1947)所収。(清水哲男)


February 2822001

 如月も尽きたる富士の疲れかな

                           中村苑子

季の富士山は積雪量が多く、ことのほか秀麗な姿を見せているそうだ。私の住む三鷹市あたりからも昔はよく見えたようだが、いまは簡単には見えなくなった。近くの練馬区富士見丘(!)からも、見えなくなって久しい。それはともかく、ご承知のように、季語には山を擬人化した「山眠る」「山笑ふ」がある。卓抜な見立てだが、しかし同じ山でも、富士山だけには不向きだなと、掲句を読んで気がついた。冬の間の富士山は、どう見ても眠っているとは思えない。むしろ、眼光炯々として周囲を睥睨しているかのようだ。肩ひじも張っている。だから、寒気の厳しい「如月」が終わるころともなると、さすがに疲れちゃうのである。春霞がかかってきて、いささかぼおっとした風情を見て、作者はそう感じたのだ。この感覚は、寒い時季をがんばって乗りきってきた人間の「疲れ」にも通じるだろう。「疲れ」からとろとろと睡魔に引き込まれていくかのような富士山の姿はほほ笑ましくもあるが、どこかいとおしくも痛ましい。「疲れ」という表現には、微笑に傾かずに痛ましさに傾斜した作者の気持ちがこめられているのだ。言わでものことだが、痛ましいと思う気持ちは愛情に発している。作者は、今年一月五日に亡くなった。享年八十七歳。振り返ってみれば、中村苑子は徹底して痛ましさを詠みつづけた希有の俳人であったと思う。しかも、自己には厳しく他には優しく……。このことについては、折に触れて書いていきたい。「凧なにもて死なむあがるべし」。「凧」は「たこ」と読まずに、この場合は「いかのぼり」と読む。新年ではなく春の季語。『水妖詞館』(1975)所収。(清水哲男)


February 2722001

 灰となる椅子の残像異動期過ぐ

                           穴井 太

くの職場では、人事異動の季節。実際に動くのは四月だとしても、労働契約にしたがって、少なくとも一ヶ月前までには内示がある。いまの「椅子」から動きたい人、動きたくない人、さまざまだ。作者は中学教師だった。人事異動には昇進も含まれるが、この場合は転勤だろう。作者は動きたくなかった。だが、異動には頃合いというものがあり、そろそろ動かされても仕方がない立場ではあった。いつ内示があるかと、毎日びくびくしている。教師の世界は知らないが、異動を言い渡す役目は校長だろうか。だとすれば、校長の一挙手一投足までが気になる。うなされて、自分の「椅子」が灰になる夢を何度も見る。しかし結局は何ごともなく二月が過ぎていき、ようやく安堵の胸をなで下ろしたところだ。が、なで下ろしながらも、「灰となる椅子の残像」は見えている。よほど神経的にまいってしまっているのだ。この「残像」に思い当たるサラリーマンは多いだろう。穴井太には「風になった男」という小さな山頭火論があって、風まかせに歩いた自由律俳人の生き方に目を見張っている。見張ってはいるものの、とうてい山頭火のようには生きられぬのが自分の器量であり宿命でもある。このときに「春の雲おれの居場所は段畑」と詠んだ穴井太の心情は、切なくも読者の胸奥にしみ入ってくる。たしかに山の「段畑」は、ささくれた神経を解きほぐしてくれる最高の「居場所」にはちがいないが、作者がここから風となって遠くに吹いていくことは、ついにできないのだから。山を下りれば、そこには「椅子」があるのだから。『穴井太集』(1967)所収。(清水哲男)




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