壊れたパソコンを修理に。日頃からバックアップをとっていたはずが、メールだけが抜けていた。泣き。




2001ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722001

 灰となる椅子の残像異動期過ぐ

                           穴井 太

くの職場では、人事異動の季節。実際に動くのは四月だとしても、労働契約にしたがって、少なくとも一ヶ月前までには内示がある。いまの「椅子」から動きたい人、動きたくない人、さまざまだ。作者は中学教師だった。人事異動には昇進も含まれるが、この場合は転勤だろう。作者は動きたくなかった。だが、異動には頃合いというものがあり、そろそろ動かされても仕方がない立場ではあった。いつ内示があるかと、毎日びくびくしている。教師の世界は知らないが、異動を言い渡す役目は校長だろうか。だとすれば、校長の一挙手一投足までが気になる。うなされて、自分の「椅子」が灰になる夢を何度も見る。しかし結局は何ごともなく二月が過ぎていき、ようやく安堵の胸をなで下ろしたところだ。が、なで下ろしながらも、「灰となる椅子の残像」は見えている。よほど神経的にまいってしまっているのだ。この「残像」に思い当たるサラリーマンは多いだろう。穴井太には「風になった男」という小さな山頭火論があって、風まかせに歩いた自由律俳人の生き方に目を見張っている。見張ってはいるものの、とうてい山頭火のようには生きられぬのが自分の器量であり宿命でもある。このときに「春の雲おれの居場所は段畑」と詠んだ穴井太の心情は、切なくも読者の胸奥にしみ入ってくる。たしかに山の「段畑」は、ささくれた神経を解きほぐしてくれる最高の「居場所」にはちがいないが、作者がここから風となって遠くに吹いていくことは、ついにできないのだから。山を下りれば、そこには「椅子」があるのだから。『穴井太集』(1967)所収。(清水哲男)


February 2622001

 春寒に入れり迷路に又入れり

                           相生垣瓜人

句。相生垣瓜人(あいおいがき・かじん)は、洒脱な俳風で知られた人。1985年(昭和六十年)二月に、米寿で亡くなっている。「三寒四温」とは冬の季語だが、二月如月の季節は気温が高くなったり低くなったりと、さながら「迷路」のように温度に消長がある。そんな消長を繰り返しながら季節は本格的な春へと赴くわけだが、揚句の「迷路」の実感は自身の病状と、それに伴う心情にかけられているのだろう。身体の状態がまさに「三寒四温」のように一進一退を繰り返し、ここにきて「又」寒くなってきた。この「迷路」は遊園地などの人工的なそれではないから、無事に抜け出られるかどうかはわからない。天然自然の「迷路」に入り込んで、さて、オレには「又」暖かい春が来るのか来ないのか。過去には何度も「春寒」の危機を脱していることがあるので、なおさら「又」に象徴される心情は複雑だ。「米寿」といえば八十八歳。これくらいまで生きると、世間ではよく「天寿を全うした」などと言いあいながら、葬式もしめっぽくならない例が多い。そんな言い草に腹を立て、「死んだこともないくせに『天寿を全うした』などと、よくもヌケヌケと言えるものだ」と言ったのは、米寿にははるかに及ばぬ年令で亡くなった詩人の北村太郎であった。死ぬ当人にしてみれば、ついに「迷路」から脱出がかなわなかったという残念があるかもしれぬのだから。俳誌「馬酔木」〈1985年4月号〉所載。(清水哲男)


February 2522001

 蒼白な火事跡の靴下蝶発てり

                           赤尾兜子

つう「蝶発(た)てり」といえば、明るい希望や期待の心などを象徴するが、揚句の蝶の姿はあくまでも暗い。火事場に残された焼け焦げて汚れた靴下のように「蒼白な」蝶が、ふらふらっと哀れにも舞い上がったところと読む。それでなくとも暗い蒼白な「火事跡」に、追い討ちをかけるようにして蝶の暗い飛翔ぶりを足している。「これでもか」と言わんばかりだ。このとき、読者には少しの救いも感じられない。やりきれぬ。このような感受性や叙情性は、詩人で言えば萩原朔太郎のそれに近いだろう。極端に研ぎ澄まされた神経が、ことごとく世間一般の向日性と摩擦を生じてしまうのだ。作者は新聞記者だったから、結局はどこかで世間との折り合いをつけなければならぬ職業であり、かといってみずからの感受性を放擲するわけにもいかず、そこで「蒼白」になりながら俳句を書いていたのだと、これは私の偏見かもしれないが……。でも、兜子はなぜ死ぬ(自殺・1981)まで俳句に執着したのだろうか。私の長年の素朴な疑問だ。揚句一句だけからでもわかるが、この程度の中身ならば詩ではむしろ凡庸なレベルにダウンする。逆に言えば、俳句に執着したがために、この内容で止まってしまったと言うべきか。詩で言えることを、無理に俳句で言おうとしているとしか思えない。だったら、俳句でないほうがよかったのではないか。なぜ俳句だったのか。その意味で、兜子にかぎらず、私がハテナと思う「俳人」は少なくない。眺めていて、詩の書き手は比較的俳句や短歌を読むが、ほとんどの俳人は詩を読まないようだ。関係がありそうな気がする。『虚像』(1965)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます