見えぬ軍事バリアの恐ろしさ。いや、見えていてもどうにもならぬ理不尽も。東京大空襲の記憶が蘇る。




2001ソスN2ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2322001

 煙草屋の娘うつくしき柳かな

                           寺田寅彦

いした句ではないけれど、たまには肩の凝らない句もいいものだ。「うつくしき」は「娘」と「柳」両方にかけてある(くらいは、誰にでもわかるけど)。この娘さん、きっと柳腰の美人だったのだろう。その昔の流行歌に「♪向こう横丁の煙草屋の可愛い看板娘……」とあるように、なぜか(失礼)煙草屋の娘には美人が多かった。というよりも、実際はなかなか若い娘と口を聞く機会がなかった時代だから、客としておおっぴらに話のできた煙草屋の娘がモテたと見るべきだろう(またまた失礼)。芽吹いてきた柳は、うっとりするほど美しい。したがって、春の季語となった。かの寺田寅彦センセイから、揚句の娘さんは柳と同じように「うつくしき」と詠んでもらったわけで、曰く「もって瞑すべし」とはこのことだ。それがいまや、煙草屋から看板娘が消えたのもとっくのとうの昔のことで、さらには煙草屋の数も激減してしまい、自動販売機が不愉快そうにぼそっと突っ立っているばかり。とくれば、世に禁煙者が増殖しつづけているのも当たり前の成り行きか。ところで一方の柳だが、さすがに美しさを愛でた句は多いのだけれど、なかには其角のように「曲れるをまげてまがらぬ柳かな」と、その性に強情を見る「へそ曲がり」もいた。極め付けは、サトウ・ハチローの親父さんである作家・佐藤紅緑が詠んだ「首縊る枝振もなき柳かな」かな。でも、こんなに言われても、柳は上品だからして「だから、なんだってんだよオ」などと、そんな下卑た口はきかないのである。柳に風と受け流すだけ。(清水哲男)


February 2222001

 兵舎の黒人バナナ争う春の午後

                           島津 亮

が世に連れるように、俳句も世に連れる。揚句を理解するには、戦後の疲弊した日本社会に心を移して読まなければならない。「兵舎」には「きゃんぷ」の振り仮名。春の午後に、基地の兵舎で、黒人兵たちがふざけ半分にバナナを争っている。ただそれだけの図であるが、作者はただそれだけのことに呆然としていると言うのだ。何故の呆然か。一つには、進駐してきたアメリカ兵たちが、日本の兵士たちに比べてあまりにも明るく開放的であったことへの衝撃がある。とくに黒人兵たちは目立ったこともあり、とてつもなく陽気に見えた。兵舎での食べ物の取り合いくらいは、日常茶飯事という印象だ。日本の軍隊では考えられない光景である。そして彼らのこの陽気は、同時に治外法権者の特権にも通じていると写り、敗戦国民にはまぶしいような存在だった。もう一つには、困難を極めた食糧事情の問題がある。バナナやパイナップルなどは高価で、そう簡単には庶民の口には入らなかった。それをごく普通の食べ物として、平気で取り合っている……。呆然とせざるを得ないではないか。「春の午後」は、さながら天国のような基地の兵舎の雰囲気を象徴した言葉として読める。前衛俳句の旗手として活躍した島津亮にしては大人しい句だが、あの頃を知る読者には、今でもひどく切なく響いてくるだろう。羨まず嫉まず怒らず、ただ呆然とするのみの世界が同じ地上に近接していたのだ。もう一句。「びくともせぬ馬占領都市に花火爆ぜる」。人間よりも馬のほうが、よほど性根がすわっていた。『記録』所収。(清水哲男)


February 2122001

 春服の人ひとり居りやはり春

                           林 翔

の上では春となったが、まだ吹く風も冷たい。たいていの人が冬服のままでいるというのに、ひとりだけ「春服」を着ている人がいる。街中でちらりと見かけたのではなく、会合か何かの場所での作句だろう。「居り」という語が、作者がその人を認めている時間の長さを示しているからだ。地味な冬服に囲まれた明るく軽快な感じの「春服」一点なので、ずいぶんと目立つ。ましてや、女性であればなおさらに際立つ。もちろん男女いずれでもよいわけだが、作者はそんな「ひとり」を見やりつつ、「やはり春」なんだなと嬉しい気分になった。「やはり春」と自己納得したときに、心のうちにポッと明るいものが灯った。「でも、あの人、寒くないのかなあ……」。ところで、篠原梵に「人皆の春服のわれ見るごとし」がある。ちょうど、揚句に詠まれた人が詠んだような句だ。春めいてきたので、浮き浮きとした気分で春服を着て街に出てみたら、まだ「人皆」は冬服だった。じろじろと見られているようで、なんだか恥ずかしい。こういうときは、本人が意識するほど他人は見てはいないというが、いややっぱり、揚句の作者のように見ている人は見ているのだ。ただし、こうした感性は昔の人のそれであって、いまの若い人にはほとんど通じないかもしれない。なお「春服」はむろん春の季語だが、「春着」は晴着に通じ新年の季語に分類されている。念のため。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)




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