そろそろ植物園に行ってみようか。人工的で好きではないが、あそこに行かないと植物が見られない…。




2001ソスN2ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1822001

 ひとり旋る賽の河原の風ぐるま

                           千代田葛彦

の知るかぎり、最も不気味にして印象的な風車の句。ご承知のように「賽(さい)の河原」は、死んだ幼な子がもっとも辛酸をなめさせられる場所だ。父母の供養のために石を積んで塔を作ろうとしていると、鬼が現われては壊してしまう。そんな苦しみの河原に、子供の大好きな玩具である風車が「ひとり旋(まわ)」っているというのである。「廻る」や「回る」ではなく「旋る」という字をあてたのは、「旋風(つむじかぜ・せんぷう)」の連想から、猛烈な風の勢いのなかでの回転を表現したのだろう。あの河原には、常に寒風が吹きあげている。春のそよ風に廻る風車には優しい風情があるけれど、揚句のそれはひたすら非情に回転しつづけているばかり。私のイメージでは、この風車は巨大なもので、しかも虚空に浮かんでおり、回転速度がはやいために色彩は灰色にしか見えない。「旋る」音も軽快な感じではなく、吹き上げる強風に悲鳴をあげているような……。こんなふうに想像を伸ばしていくと、どんどん怖くなりそうなので止めておくが、とにかく「賽の河原」に「風車」を持っていくとは、度肝を抜かれる発想だ。脱帽ものである。口直しに(笑)、三好達治の一句を。「街角の風を売るなり風車」。なんて詩人はやさしいんだろう。『合本・俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1722001

 ときをりの水のささやき猫柳

                           中村汀女

かい地方では、もう咲いているだろう。山陰で暮らしていた子供のころには、終業式間近に開花した。まだ、ひと月ほど先のことだ。「猫柳」は一名「かわやなぎ」とも言うように、川辺に自生する。咲きはじめると、川辺がずうっとどこまでもけむるように見え、子供心にも一種の陶酔感が芽生えた。川(というよりも、小川)は重要な遊び場だったので、猫柳はその遊び場が戻ってくる先触れの花であり、そんな嬉しさも手伝ってきれいに見えたのかもしれない。どなたもご存知の文部省唱歌「春の小川」(高野辰之作詞)は、フィクションなんかじゃなかった。とくに二番の「……えびやめだかや 小ぶなの群れに きょうも一日 ひなたでおよぎ」あたりは、現場レポートそのものである。咲き初めた「猫柳」をかきわけて、小川をのぞきこむ。と、いるいる。「えびやめだか」たちが。まだ水は冷たいので入りはしないけれど、のぞきこみながら、何だかとても嬉しい気分になったものだ。揚句の作者は大人だから、私のようにのぞきこんだりはしていない。川沿いの道を、猫柳を楽しみながら歩いている。歩いていると、ときおり「水のささやき」が聞こえてくる。ただそれだけの句であるが、情景を知る者には、なんと美しく的確に響いてくることだろう。作家の永井龍男が戦争中に、いかに「汀女の句になぐさめられたことか」と書いている。わかるような気がする。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


February 1622001

 菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか

                           櫂未知子

村暮鳥の「いちめんのなのはな」ではないが、古来「菜の花」は黄金世界のかたまりとして捉えられ好まれてきた。揚句では、なかの二三本をいわばズーム・アップしていて、そこにまず新しさがある。そして「見捨てる」という強い表現に、私は魅力を覚えた。「見捨てる」は「見て放っておく」ことではあるが、単に「見過ごす」のではない。相手の状態がどうであれ、たとえ人が眼前で溺れていようとも、我には関わりなきものと冷たく「見放す」のだ。ところがこの場合には、相手が「菜の花」だから、べつに助けを求めているわけでもないし、作者に何かを訴えているわけでもない。それを承知で、作者はあえて「見捨てるか」とつぶやいてみた。つまり、作者は相手に対して手前勝手なことを言っている。「見捨て」られた側は何も感じない理屈であり、そこに揚句の滑稽がにじみ出てくる。手前勝手に力み返っている面白さだ。もっと言えば、はじめからいちゃもんをつける気分で「菜の花」に対しているかのようでもある。でも不思議なのは、読後感にどこか作者の「颯爽(さっそう)」たる勢いが残るところだ。理屈では空回りしている句なのに、何故だろうか。この句は、岡田史乃の俳誌「篠(すず)」(第99号・2001)で知った。そこで史乃さんは「(従来の花を大切にというような)心をかなぐりすてて『菜の花』へ正面衝突している」と書いている。たしかに、そういうふうにも読める。尻馬に乗って付け加えれば、断定的な物言いの出来がたい現代にあって、空回りであれ何であれ(そんな思いはかなぐりすてて)、きっぱりと「見捨てるか」と言い放ったこと、それ自体に私は「颯爽」を感じているのかもしれない。そう考えると、なかなかに厄介な句だ。ところで「菜の花」には「菊の花」などと同じように、食用とそうでない品種とがある。見分けのつかない(だから、この句ができた)作者は、どうしたろうか。まさか「茹で」たりしなかったでしょうね。わからないときには、さっさと「見捨てる」がよろしい(笑)。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)




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