青山南さんから新著『この話、したっけ?』(研究社出版)をいただく。インターネットは凄い、面白い。




2001ソスN2ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0922001

 東風ほのかメランコリックな犬とゐて

                           小倉涌史

風駘蕩というときの風とは違って、一般的に「東風(こち)」はまだやや荒い感じの春先の風を言う。しかし揚句では、それが「ほのか」と言うのだから、むしろこの時季にしては柔らかい風を指している。本格的な春の訪れを、どことなく予感させる風だ。なんとなく嬉しい気分で、作者は犬といっしょにいる。散歩だろうか、それとも餌をやっているのだろうか。いずれにしても、ミソは「メランコリックな犬」だ。犬を飼った経験はないが、言われてみると「メランコリックな犬」はいるような気がする。憂鬱そうな犬、沈痛な物思いにふけっているような犬……。犬にも「春愁」の感があるような……。飼っていないので、たまに見かける犬の印象でしかないけれど、飼い主の作者に言わせれば「おい、どうしたんだよ」という気持ちなのだろう。でも、わざわざ「メランコリックな」と横文字で表現したところからすると、事態はさして深刻ではない。すなわち、見慣れている不機嫌に「またか」と、ちょいと洒落れた横文字の衣装を着せてみたというところか。着せる気になったのは、作者自身はもう「東風ほのか」だけで上機嫌だからだ。体調も、すこぶるよくて、ほとんど「♪何をくよくよ川端柳」の心地だからである。作者は、ここで「メランコリックな犬」をしり目に、一つ大きく伸びくらいしたかもしれない。そして犬はといえば、あいかわらず「ムーッ」としている。このコントラストを想像すると、自然に微笑がわいてくる。何度か書いたが、小倉さんは当ページ作りの協力者だった。揚句を作ってから、ほぼ二年後に他界された。享年五十九歳。しかし、そのことで私自身が揚句にメランコリックになりすぎるのは、かえって失礼になるだろう。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


February 0822001

 水槽に動く砂粒日脚伸ぶ

                           ふけとしこ

を飼っている。水槽が置いてあるのは窓際だろうか、玄関先あたりだろうか。ともかく、室内の採光に適した場所であるにはちがいない。真冬の間には見えなかった夕刻の時間にも、魚が動くたびに水槽の砂粒のわずかに動く様子が、はっきりと目撃できるようになった。まさに「日脚伸ぶ」の実感がこもっている。むろん魚の泳ぐ姿もよく見えているわけだが、魚を言わないで砂粒のかすかな動きを捉えたことで、より「日脚伸ぶ」の感覚が読者に伝わってくる。春近い光のありがたさを敏感に感じている作者の心の、微妙な瞬間を伝えていて巧みだ。もうすぐ、本格的な春がやってくる……。「日脚伸ぶ」という晩冬の季語は、人々の春待つ期待感を、具体的にすぱりと言いとめた季語である。私は長い間、面白い季語だなあと思ってきた。「日脚」とは、太陽の「光線」だ。光が伸びるというわけだが、単に届く距離が伸びるというだけではない。走るスピードを表現するときに「脚が伸びる」というように、距離感覚と時間感覚とを共有させた言葉だろう。実際には太陽光線の移動スピードが変わるはずもないのだが、春待つ心にしてみれば「早く」と「速く」とを重ね合わせて待望したいのだ。そんな待望の心が「日脚伸ぶ」には込められていると思う。ところでまたぞろ蛇足だが、なんと下品な言葉よと「待望」という表現を嫌ったのは、かの文豪・谷崎潤一郎であった。高校時代に『文章讀本』で読んだ。「ホタル通信」(第11号・2001年2月1日)所載。(清水哲男)


February 0722001

 晴ればれと亡きひとはいま辛夷の芽

                           友岡子郷

春。吹く風はまだ冷たいけれど、よく晴れて気持ちの良い日。庭に出てみると、はやくも辛夷(こぶし)が芽吹いていた。新しい生命の誕生だ。「亡きひと」は辛夷の花が好きだったのか、あるいはこの季節に亡くなったのだろうか。ふと故人を思い出して、「晴ればれ」としたまぶしい空を辛夷の枝越しに見上げているのである。空は悲しいほどに青く澄みわたっているが、作者の胸のうちにはとても静かで明るい思いがひろがりはじめている。天上の「亡きひと」とともに、仲良く辛夷の芽を見つめているような……。辛夷の命名は、つぼみが赤ん坊の拳(こぶし)の形に似ていることから来たのだという。最初は「亡きひと」が「辛夷の芽」なのかと読んだが、つまり輪廻転生的に辛夷に生まれ変わったのかと思ったのだが、ちょっと短絡的だなと思い直した。そして「いま」の含意が、あの人は「いま」どうしているかなという、作者の「いま」の気持ちのありようを指しているのだと思った。輪廻転生は知らねども、生きとし生けるものはみな、生きかわり死にかわりしていく運命だ。このことは「いま」の作者の気持ちのように、むしろ爽やかなことでもある。やがて辛夷は咲きはじめ、ハンカチーフのような花をつける。花が風に揺れる様子は、無数のハンカチーフが天に向かって振られている様子にも見える。いかに天上が「晴ればれ」としているとしても、辛夷の花の盛りに「亡きひと」を思い出したとしたら、作者の感慨は当然べつの次元に移らざるを得ないだろう。そんなことも思った。大きく張った気持ちの良い句だ。『椰子・'99椰子会アンソロジー』(2000)所収。(清水哲男)




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