「春はあけぼの」と習った先生にたてついた。「春はゆふぐれ」と書いてあればよかったのに……。




2001ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422001

 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ

                           石田波郷

繁久弥の歌で知られる「知床旅情」の一節を思い出した。「……飲んで騒いで丘に登れば はるか国後の白夜が明ける」。いずれも青春の一コマで、懐かしくも甘酸っぱい香りを放っている。詩人の永瀬清子に、ずばり『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という本があるように、郷愁は文芸の大きな素材の一つとなってきた。「子供にも郷愁はあるのです」と言ったのは、辻征夫だ。ところで揚句の「飲めば」とは、俳句でよく使われる日本語だが、どういう意味(用法)なのだろうか。いつも引っ掛かる。みんなで大いに飲んだ「ので」、さしもの寒も明けたのか。そんな馬鹿なことはない。飲んだことと寒が明けたこととは、まるで関係がないのである。「飲めば死ぬ、飲まなくても死ぬ」とは、どこの国の言い習わしだったか。少なくとも、こうした用法ではない。「飲めば」は、原因や条件を述べているわけではない。かといって「待てば海路の日和あり」のように、飲んでいる「うちに」と時間の経過を表現した用法と解釈すると、ひどくつまらない句になってしまう。アタボウである。日常的には、とうてい通用しない言葉遣いだと言うしかない。が、面白いことには、誰もが句の言わんとしていることは了解できる。不思議なことに、よくわかるのである。文法は嫌いなので本の持ち合わせもないが、当該項目の説明だけは読んでみたい気がする。私なりの説明がないこともないのだが、まだ自信が持てないので伏せておく。寒明けをことほぐあまりに、不勉強ぶりをさらしてしまった。立春不吉(苦笑)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0322001

 鬼もまた心のかたち豆を打つ

                           中原道夫

戸中期の俳人・横井也有の俳文集『鶉衣』の「節分賦」に、節分の行事は「我大君の國のならはし」だが「いづくか鬼のすみかなるべし」と出てくる。元来が現世利益を願う行事なので、そんな詮索は無用なのだが、揚句では自分のなかにこそ鬼が住んでいるのだと答えている。鬼は、ほかならぬ自分の「心のかたち」なのだと……。だから豆を撒くのではなく、激しく「豆を打つ」ことで自分を戒めているのだ。真面目な人である。そして、こうした鬼観が真面目に出てくるのは、個人のありようを深く考えた近代以降のことだろう。也有もまた、とても作者ほどには真面目ではないが、世間から見ればいまの自分が鬼かもしれぬとも思い、こう書いた。「行く年波のしげく打よせて、かたち見にくう心かたくなに、今は世にいとはるる身の、老はそとへと打出されざるこそせめての幸なり」。「老」が「鬼」なのだ。てなことを炬燵でうそぶきつつ、そこは俳人のことだから一句ひねった。「梅やさく福と鬼とのへだて垣」。ところで東京辺りの豆撒きで有名なのは浅草寺のそれで、ここでは「鬼は外」と言わないのでも有名だ。言わないのは、まさか観音様のちかくに「鬼のすみか」があるはずもないという理由からだという。まさに現世利益追及一点張りの「福は内」の連呼というわけだが、だったら、もったいないから豆撒きなんかしないほうがよいのではないか。と、これは私の貧乏根性の鬼のつぶやきである。『歴草』(2001)所収。(清水哲男)


February 0222001

 冬服着る釦ひとつも遊ばせず

                           大牧 広

者は大変な寒がりやで、身内に少しの外気が入るのも許さない。だから、かくのごときの重装備とはあいなる。ひとつの釦(ぼたん)も遊ばせずに、すべてきちんとかけてから外出する。そんな姿は一見律義な人に見えるが、そうではないと作者自身がコメントしている。「(何事につけ)小心ゆえに、適当に過すということができないのである」とも……(「俳句界」2001年2月号)。小心のあらわれようは人さまざまだろうが、服の着方が私とは正反対なので、目についた。私の場合は、よく言えばラフな着方だが、要するにズボラなのである。いちいちボタンをかけるのが面倒くさい。したがって、外気はそこらじゅうから入ってくる。もちろん寒いが、寒かったら襟を掻きあわせるようにして歩く。そんなことをしなくてもちゃんとボタンはついているのだが、それでもかけるのが億劫というのだから、ズボラもここに極まれりだ。性癖と言うしかあるまい。それにしても、ボタンを遊ばせるとは面白い表現だ。本来は仕事をしてもらわなければならないのに遊ばせておくわけで、女性や子供の服にあるような飾りのボタンとは違う。私のように遊ばせすぎるのは話にならないが、適度に遊ばせるのは粋(いき)やダンディズムに通じるようだ。心のゆとり(遊び心)を表現することになるからだろう。外国にも、こういう言い方はあるのだろうか。(清水哲男)




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