2001N2句

February 0122001

 飴売の鳥居にやすむ二月かな

                           入江亮太郎

前の句。縁日でのスナップだろうか。笛を吹きながらにぎやかに飴を売っていた男がくたびれたらしく、小休止している。それも、鳥居の根元のところに腰掛けている。たぶん大きな鳥居で、腰掛けている姿は中腰に近いと読んだほうが面白い。神域で商売をしながら、ちょいと神域に尻を向けている図だ。真っ赤な鳥居と派手な衣装の飴売りの姿との取り合わせにも、長閑な気分がある。全て世は事もなしといった感じに、作者は「もう春だなあ」と微笑している。旧暦の二月は春も仲春だから、歳時記で「二月」は春の部に分類されてきたが、新暦当月はまだまだ寒さが厳しい。したがって、新暦二月を詠むとなると、どうしても「春は名のみの……」という感覚が入り込んでくる。事実、そういう句が多い。そんななかで揚句は新暦句ながら、「二月」に仲春の雰囲気を見つけている。たまさか暖かい日だったのかもしれないが、ふんわりとして明るい句だ。では逆に、ものすごく寒そうな一句を。「詩に痩せて二月渚をゆくはわたし」(三橋鷹女)。渚も寒いだろうが、「詩に痩せ」た作者の心の内はもっと寒い。春など遠い厳寒だ。ただし、このような詩心の行き詰まりをあえて句にする作者の気性は相当に激しく、熱い。いわば癇性(かんしょう)に近い感覚だと思う。だから余計に、句に寒さがしみ渡るのである。遺句集『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


February 0222001

 冬服着る釦ひとつも遊ばせず

                           大牧 広

者は大変な寒がりやで、身内に少しの外気が入るのも許さない。だから、かくのごときの重装備とはあいなる。ひとつの釦(ぼたん)も遊ばせずに、すべてきちんとかけてから外出する。そんな姿は一見律義な人に見えるが、そうではないと作者自身がコメントしている。「(何事につけ)小心ゆえに、適当に過すということができないのである」とも……(「俳句界」2001年2月号)。小心のあらわれようは人さまざまだろうが、服の着方が私とは正反対なので、目についた。私の場合は、よく言えばラフな着方だが、要するにズボラなのである。いちいちボタンをかけるのが面倒くさい。したがって、外気はそこらじゅうから入ってくる。もちろん寒いが、寒かったら襟を掻きあわせるようにして歩く。そんなことをしなくてもちゃんとボタンはついているのだが、それでもかけるのが億劫というのだから、ズボラもここに極まれりだ。性癖と言うしかあるまい。それにしても、ボタンを遊ばせるとは面白い表現だ。本来は仕事をしてもらわなければならないのに遊ばせておくわけで、女性や子供の服にあるような飾りのボタンとは違う。私のように遊ばせすぎるのは話にならないが、適度に遊ばせるのは粋(いき)やダンディズムに通じるようだ。心のゆとり(遊び心)を表現することになるからだろう。外国にも、こういう言い方はあるのだろうか。(清水哲男)


February 0322001

 鬼もまた心のかたち豆を打つ

                           中原道夫

戸中期の俳人・横井也有の俳文集『鶉衣』の「節分賦」に、節分の行事は「我大君の國のならはし」だが「いづくか鬼のすみかなるべし」と出てくる。元来が現世利益を願う行事なので、そんな詮索は無用なのだが、揚句では自分のなかにこそ鬼が住んでいるのだと答えている。鬼は、ほかならぬ自分の「心のかたち」なのだと……。だから豆を撒くのではなく、激しく「豆を打つ」ことで自分を戒めているのだ。真面目な人である。そして、こうした鬼観が真面目に出てくるのは、個人のありようを深く考えた近代以降のことだろう。也有もまた、とても作者ほどには真面目ではないが、世間から見ればいまの自分が鬼かもしれぬとも思い、こう書いた。「行く年波のしげく打よせて、かたち見にくう心かたくなに、今は世にいとはるる身の、老はそとへと打出されざるこそせめての幸なり」。「老」が「鬼」なのだ。てなことを炬燵でうそぶきつつ、そこは俳人のことだから一句ひねった。「梅やさく福と鬼とのへだて垣」。ところで東京辺りの豆撒きで有名なのは浅草寺のそれで、ここでは「鬼は外」と言わないのでも有名だ。言わないのは、まさか観音様のちかくに「鬼のすみか」があるはずもないという理由からだという。まさに現世利益追及一点張りの「福は内」の連呼というわけだが、だったら、もったいないから豆撒きなんかしないほうがよいのではないか。と、これは私の貧乏根性の鬼のつぶやきである。『歴草』(2001)所収。(清水哲男)


February 0422001

 われら一夜大いに飲めば寒明けぬ

                           石田波郷

繁久弥の歌で知られる「知床旅情」の一節を思い出した。「……飲んで騒いで丘に登れば はるか国後の白夜が明ける」。いずれも青春の一コマで、懐かしくも甘酸っぱい香りを放っている。詩人の永瀬清子に、ずばり『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という本があるように、郷愁は文芸の大きな素材の一つとなってきた。「子供にも郷愁はあるのです」と言ったのは、辻征夫だ。ところで揚句の「飲めば」とは、俳句でよく使われる日本語だが、どういう意味(用法)なのだろうか。いつも引っ掛かる。みんなで大いに飲んだ「ので」、さしもの寒も明けたのか。そんな馬鹿なことはない。飲んだことと寒が明けたこととは、まるで関係がないのである。「飲めば死ぬ、飲まなくても死ぬ」とは、どこの国の言い習わしだったか。少なくとも、こうした用法ではない。「飲めば」は、原因や条件を述べているわけではない。かといって「待てば海路の日和あり」のように、飲んでいる「うちに」と時間の経過を表現した用法と解釈すると、ひどくつまらない句になってしまう。アタボウである。日常的には、とうてい通用しない言葉遣いだと言うしかない。が、面白いことには、誰もが句の言わんとしていることは了解できる。不思議なことに、よくわかるのである。文法は嫌いなので本の持ち合わせもないが、当該項目の説明だけは読んでみたい気がする。私なりの説明がないこともないのだが、まだ自信が持てないので伏せておく。寒明けをことほぐあまりに、不勉強ぶりをさらしてしまった。立春不吉(苦笑)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0522001

 雪国の言葉の母に夫奪はる

                           中嶋秀子

い夫婦を訪ねてきたのは、作者自身の母親だろう。義母だとしたら、わざわざ俳句にするまでもない。夫と彼の母親が仲良く話していても当たり前で、「奪はる」とまでの感情はわいてこないはずだからだ。「奪はる」というのは大袈裟なようだが、作者が思いもしなかった展開になったことを示している。いまどきの軽い言葉を使うと、「ええっ、そんなのあり……」に近いだろうか。「夫」と「母」の間には、社交辞令的な会話しか成立しないと思っていたのが、意外や意外、よく通じ合う共通の話題があったのだ。つまり、母親の育った土地と夫のそれとが合致した。そこでたちまち二人は意気投合して、お国言葉(雪国の言葉)で盛んに何か話し合っている。別の土地で育った作者には、悲しいかな、入っていけない世界である。嬉々として話し合う二人を前にして、作者は母親に嫉妬し、憎らしいとさえ思っているのだ。第三者からすれば、なんとも可憐で可愛らしい悋気(りんき)である。ここで興味深いのは、作者の嫉妬が母親に向けられているところだ。話に夢中になっている夫だって同罪(!?)なのに、嫉妬の刃はなぜか彼には向いていない。私のか細い見聞による物言いでしかないが、男女の三角関係においては、どういうわけか女の刃は同性に向くことが一般的なようである。新聞の社会面に登場する事件などでも、女性が女性を恨むというケースが目立つ。たとえ男の側に非があっても、とりあえず男は脇にどけておいて、女性は女性に向かって真一文字に突進する。何故なのだろう。本能なのだろうか……。いけねえっ、またまた脱線してしまったようだ(反省)。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


February 0622001

 佶倔な梅を画くや謝春星

                           夏目漱石

が意を得たり。その通りだ。と、私などは思うけれども、作者に反対する人も多いだろうなとは思う。「謝春星」は、俳人にして画家だった与謝蕪村の別号だ。あえて誰も知らない「謝春星」と漱石が書いたのは、「梅の春」にひっかけた洒落っ気からだろう。漱石は、蕪村の画く梅が佶倔(きつくつ)だと批評している。はっきり言えば、一見のびやかな感じの絵に窮屈を感じているのだ。「佶倔」は窮屈、ぎくしゃくしているという意味である。句の裏には、むろん商売で絵を画く蕪村への同情も含まれている。ひとたび蕪村の世界にとらわれた人は、生涯そこから抜け出せない。逆に、最初に入れなかった人は、ついに蕪村を評価できないで終わってしまう。これは、蕪村の俳句についてよく言われることだ。このページでも何度か書いたはずだが、蕪村は徹底的に自己の表現世界を演出した人だった。俳句でも絵画でも、常に油断のない設計が隅から隅まで仕組まれている。神経がピリピリと行き渡っている。だからこそ惚れる人もいるのだし、そこがイヤだなと感じる人も出てくる。漱石は、イヤだなと思った一人ということになる。実際、蕪村の絵を前にすると、あるいは俳句でも同じことだが、18世紀の日本人だとは思えない。つい最近まで、生きて活動していた人のような気がする。暢気(のんき)そうな俳画にしても、よく見ると、ちっとも暢気じゃない。暢気に見えるのは図柄の主題が暢気なせいなのであって、構図そのものは「佶倔」だ。演出が過剰だから、どうしてもそうなる。そのへんが下手な(失礼、漱石さん)水墨画を画いた作者には、たまらなかったのだろう。だから、あえて下手な句で皮肉った。この場合は上手な句だと、皮肉にも皮肉にならないからである。蕪村の辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」だ。百も承知で、漱石は揚句を書いたはずだ。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)


February 0722001

 晴ればれと亡きひとはいま辛夷の芽

                           友岡子郷

春。吹く風はまだ冷たいけれど、よく晴れて気持ちの良い日。庭に出てみると、はやくも辛夷(こぶし)が芽吹いていた。新しい生命の誕生だ。「亡きひと」は辛夷の花が好きだったのか、あるいはこの季節に亡くなったのだろうか。ふと故人を思い出して、「晴ればれ」としたまぶしい空を辛夷の枝越しに見上げているのである。空は悲しいほどに青く澄みわたっているが、作者の胸のうちにはとても静かで明るい思いがひろがりはじめている。天上の「亡きひと」とともに、仲良く辛夷の芽を見つめているような……。辛夷の命名は、つぼみが赤ん坊の拳(こぶし)の形に似ていることから来たのだという。最初は「亡きひと」が「辛夷の芽」なのかと読んだが、つまり輪廻転生的に辛夷に生まれ変わったのかと思ったのだが、ちょっと短絡的だなと思い直した。そして「いま」の含意が、あの人は「いま」どうしているかなという、作者の「いま」の気持ちのありようを指しているのだと思った。輪廻転生は知らねども、生きとし生けるものはみな、生きかわり死にかわりしていく運命だ。このことは「いま」の作者の気持ちのように、むしろ爽やかなことでもある。やがて辛夷は咲きはじめ、ハンカチーフのような花をつける。花が風に揺れる様子は、無数のハンカチーフが天に向かって振られている様子にも見える。いかに天上が「晴ればれ」としているとしても、辛夷の花の盛りに「亡きひと」を思い出したとしたら、作者の感慨は当然べつの次元に移らざるを得ないだろう。そんなことも思った。大きく張った気持ちの良い句だ。『椰子・'99椰子会アンソロジー』(2000)所収。(清水哲男)


February 0822001

 水槽に動く砂粒日脚伸ぶ

                           ふけとしこ

を飼っている。水槽が置いてあるのは窓際だろうか、玄関先あたりだろうか。ともかく、室内の採光に適した場所であるにはちがいない。真冬の間には見えなかった夕刻の時間にも、魚が動くたびに水槽の砂粒のわずかに動く様子が、はっきりと目撃できるようになった。まさに「日脚伸ぶ」の実感がこもっている。むろん魚の泳ぐ姿もよく見えているわけだが、魚を言わないで砂粒のかすかな動きを捉えたことで、より「日脚伸ぶ」の感覚が読者に伝わってくる。春近い光のありがたさを敏感に感じている作者の心の、微妙な瞬間を伝えていて巧みだ。もうすぐ、本格的な春がやってくる……。「日脚伸ぶ」という晩冬の季語は、人々の春待つ期待感を、具体的にすぱりと言いとめた季語である。私は長い間、面白い季語だなあと思ってきた。「日脚」とは、太陽の「光線」だ。光が伸びるというわけだが、単に届く距離が伸びるというだけではない。走るスピードを表現するときに「脚が伸びる」というように、距離感覚と時間感覚とを共有させた言葉だろう。実際には太陽光線の移動スピードが変わるはずもないのだが、春待つ心にしてみれば「早く」と「速く」とを重ね合わせて待望したいのだ。そんな待望の心が「日脚伸ぶ」には込められていると思う。ところでまたぞろ蛇足だが、なんと下品な言葉よと「待望」という表現を嫌ったのは、かの文豪・谷崎潤一郎であった。高校時代に『文章讀本』で読んだ。「ホタル通信」(第11号・2001年2月1日)所載。(清水哲男)


February 0922001

 東風ほのかメランコリックな犬とゐて

                           小倉涌史

風駘蕩というときの風とは違って、一般的に「東風(こち)」はまだやや荒い感じの春先の風を言う。しかし揚句では、それが「ほのか」と言うのだから、むしろこの時季にしては柔らかい風を指している。本格的な春の訪れを、どことなく予感させる風だ。なんとなく嬉しい気分で、作者は犬といっしょにいる。散歩だろうか、それとも餌をやっているのだろうか。いずれにしても、ミソは「メランコリックな犬」だ。犬を飼った経験はないが、言われてみると「メランコリックな犬」はいるような気がする。憂鬱そうな犬、沈痛な物思いにふけっているような犬……。犬にも「春愁」の感があるような……。飼っていないので、たまに見かける犬の印象でしかないけれど、飼い主の作者に言わせれば「おい、どうしたんだよ」という気持ちなのだろう。でも、わざわざ「メランコリックな」と横文字で表現したところからすると、事態はさして深刻ではない。すなわち、見慣れている不機嫌に「またか」と、ちょいと洒落れた横文字の衣装を着せてみたというところか。着せる気になったのは、作者自身はもう「東風ほのか」だけで上機嫌だからだ。体調も、すこぶるよくて、ほとんど「♪何をくよくよ川端柳」の心地だからである。作者は、ここで「メランコリックな犬」をしり目に、一つ大きく伸びくらいしたかもしれない。そして犬はといえば、あいかわらず「ムーッ」としている。このコントラストを想像すると、自然に微笑がわいてくる。何度か書いたが、小倉さんは当ページ作りの協力者だった。揚句を作ってから、ほぼ二年後に他界された。享年五十九歳。しかし、そのことで私自身が揚句にメランコリックになりすぎるのは、かえって失礼になるだろう。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


February 1022001

 忌籠の家の竹馬見えてをり

                           波多野爽波

集では、この句の前に「病篤しと竹馬の子の曰く」が置かれている。気にかかっている病人の様子を、その家の竹馬の子に「おじいちゃん、どんな様子かな」などと、さりげなく尋ねたときの答えだ。こういうことは、よくある。同じ家人でも、大人に尋ねるのは気が重い。それに、見舞いに行くほどの親しい間柄でもない。道で会ったら、会釈を交わす程度の町内の知り合いだ。「曰く」という表現には、竹馬に乗った子供が作者よりも高い位置から病状を告げた様子が見えて妙。さて、揚句ではその病人が亡くなった。通りかかった家の中はしいんとしており、玄関脇に子供の竹馬が立て掛けられているのが見える。ただこれだけの描写だけれど、冷え冷えとした竹馬が忌籠(忌中)の家の様子を雄弁に物語っている。なかでも、いつものように竹馬で遊べない子の神妙な表情までが見えてくるようではないか。このとき、竹馬はまさに「悲しき玩具」である。竹馬遊びは古くから行われていたようで、西行の「竹馬を杖にも今日は頼むかな童遊びを思出でつつ」は有名だ。ただし、この竹馬は笹の葉のついた竹を馬に見立てて、またがって遊んだものらしい。いまのような竹馬は、近世の産物か。冬の季語とされているが、この理由もよくわからない。「竹八月に木六月」といって、竹の伐りどきは秋口である。伐採されなかったり廃材化した無用の竹で作ったので、必然的に冬の遊び道具になったのかもしれない。なお「忌籠」は「いごもり」。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


February 1122001

 地球儀のいささか自転春の地震

                           原子公平

語では、地震を「なゐ」と言った。作者も、そのように読んでくださいと「ない」と仮名を振っている。ぐらっと来た。少し離れたところの地球儀を見ると、「いささか」回るのが見えた。地震だから地が動いたわけで、そこから「地球儀」も自転したと捉えたのが揚句の芸である。「いささか」でも地球儀が回るほどの地震だから、そんなに小さな揺れではなかったろう。ちょっと緊張して、腰を浮かせたくなるほどだったろう。とっさに地球儀に目がいったのは、部屋の中でいちばん転落しやすい物という意識が、日ごろからあったからに違いない。たしかに地球儀は、少なくとも見た目には安定感に欠けている。でも、それっきりで揺れは収まった。ヤレヤレである。句意としては、こんなところでよい。ただうるさいことを言えば、何故「春の地震」なのかという疑問が残る。べつに「春」でなくたって、他の季節の「地震」でも、同じことではないか。実際に、たまたま「春の地震」に取材したのだとしても、それだけでは「春」と表現する根拠には乏しいのではないか。地震の揺れように、四季の区別はないからだ。はじめ私もそう思ったが、この句の主題は「地震」などにはなく、本格的な「春」の到来にあるのだとわかった。すなわち、他の「夏」でも「秋」でも「冬」でもなく、いきなり「地震」のように予知できない感じで訪れるのが「春」なのだと。四季のうちで最もおだやかな「春」が、もっとも不意にやってくるのだと……。「春めく」という言葉があるくらいで、兆しはあっても、待つ「春」は遅い。しかし、あっと「地球儀」の回転に気づいたときには、もう「春」は盛りなのである。わざわざ「地震」を「ない」と読ませているのは、字余りを嫌ったのではなくて、「古来」という感覚を生かしたかったのだ。すなわち、句全体が「春の訪れ」の喩になっている。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


February 1222001

 言ひつのる唇うつくしや春の宵

                           日野草城

城、大正期の青春句。目の前の女性が、盛んに「言ひつの」ってくる。勝ち気で負けず嫌いなのだろう。たぶん、作者の言ったことに反発し、反論しているのだ。「生意気なことを言うんじゃないよ」くらいに思って聞いているうちに、だんだんと彼女の話よりも、その「唇(くち)」の美しさに目が奪われ、話の中身などどうでもよくなってしまった。男の気持ちは、えてしてこのように動きがちだ。そんなこととは露知らぬ彼女は、ますます舌鋒鋭く「言ひつのる」。まさに艶めく「春宵一刻値千金」の図。と、もちろん、これは作者の一方的な思いでしかない。一方的だから、当然、しっぺ返しも受ける。句集で揚句の次に出てくるのが、言わんこっちゃない、「くちびるをゆるさぬひとや春寒き」だ。欲望をあっさり断たれて、「春の宵」も急に寒くなっちゃった。青春の泣き笑い。ただし、泣かされても「くちびるをゆるさぬひとや」と平仮名表記で句をロマンチックに仕立て上げるのを忘れないところなんぞは、なかなかにしぶとい。失恋も、けっこう「カッコよいだろ」と言いたいのだ。いわば先天的な詩人の業を感じる。「くちびる」で思い出したが、戦後間もなくの流行歌に「夜の銀座は七色ネオン、誰にあげよかくちびるを、かりそめの恋……」という奔放な女性像を描いた一節があって、子供だったくせに、なぜか心惹かれた。昔の「くちびる」は「ゆるす」ものであり、また「あげる」ものなのであった。現代の青春では、どうなのだろう。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001・角川書店)所収。(清水哲男)


February 1322001

 アイロンは汽船のかたち鳥曇

                           角谷昌子

語は「鳥曇(とりぐもり)」で、春。雁や鴨などの渡り鳥が北方へ帰っていくころの曇り空を言う。春の曇天には人の憂いを誘うような雰囲気があり、帰る鳥たちの淋しさ、哀れさに通じていて味わい深い。「また職をさがさねばならず鳥ぐもり」(安住敦)。「鳥雲に(入る)」という季語もあって、物の本には『和漢朗詠集』の「花ハ落チテ風ニ随ヒ鳥ハ雲ニ入ル」に発すると書いてある。現代人である私たちの半ば故無き「春愁」の思いも、元はと言えば、自然とともにあった祖先の感覚につながって発現してくるのだろう。「少年の見遣るは少女鳥雲に」(中村草田男)。揚句は、そうした古くからの「鳥曇」の情緒を、現代の感覚でとらえかえした試みとして注目される。それも「アイロンは汽船のかたち」と童心をもって描くことで、遠くに帰っていく鳥たちの姿や行く手に明るさを与えている。私たちが沖を行く汽船に淋しさや哀れさを感じないように、鳥たちのいわば冒険飛行に期待と希望をこめて詠んでいる。この「鳥曇」は、実にふんわりとあたたかい感じのする曇り空だ。アイロンがけをしている作者の姿を想像すると、上機嫌で「シロイケムリヲハキナガラ、オフネハドコヘイクノデショウ……」と童謡の一節くらいは口ずさんでいるように思えてくる。『奔流』(2000)所収。(清水哲男)


February 1422001

 砂漠越ゆ女神たのみの春飛行

                           松村多美

書に「ラスベガス二句」とあるうちの一句。砂漠の人工都市ラスベガスに入るには、まるで「蚊とんぼ」のような頼りない雰囲気の飛行機に乗る必要がある。昔は、よく墜落した。だから必然的に「女神たのみ」の心持ちになる。巧みな句だと思う。私が最初にラスベガスに出かけたのは、仕事のためだった。生来の高所恐怖症も伴って、この飛行機には生きた心地がしなかった。「女神たのみ」などぜいたくなことは言っていられない。「ワラ」にもすがりたい思い。「春飛行」の暢気な風情は、カケラもなかったのである。と、体験した人にはよくわかる揚句だが、作者が書き留めておきたかった気持ちもよくわかるが、他の読者にはどうだろうか。最近は、海外に取材した句が増えてきた。虚子や漱石あたりが出かけていった戦前にも海外句はあるが、当時は物珍しさも手伝って読まれたのだろう。絵はがきかスナップ写真みたいに、だ。いまは旅行事情が激変しているので、そうもいかない。日本にいるときと同じ作句態度が要請される。が、私の狭量にも原因がありそうだが、行ったことのない外国が読まれていると、ちっとも面白く感じない。風土文物などが実感的にわからないので、感覚が届かないのである。国内であれば、未知の土地の句でも、それなりに推量はできる。外国は、さっぱりいけない。手がかりがない。これからも海外句は増えていくだろうが、未知の読者に向けて、一句や二句でその土地を言い当てるのは無理ではなかろうか。他に何か、芭蕉の『おくのほそ道』みたいな方法でも工夫しないと……。考えてみれば、芭蕉の紀行文は海外レポートみたいな要素をたくさん含んでいる。『森を行く』(2001)所収。(清水哲男)


February 1522001

 宿の灯や切々闇に芽吹くもの

                           清水哲男

うか「切々」は「きれぎれ」と読まずに「せつせつ」と読んでください。さて、年に一度の誕生日、したがって「増俳」も年に一度の無礼項なり(笑)。自註をくっつけるほど偉そうに振る舞える句でもないけれど、ちょっとコメント。なぜ、日本旅館にしても洋風のホテルにしても、部屋の燈火はあんなに薄暗いのだろうか。宿には夕暮れ以降に入ることが多いので、特にその印象が強い。玄関辺りの明るさにやれ嬉しやと思ったのも束の間、通された部屋の灯が薄らぼんやりしているのにはがっかりする。まともに新聞も読めやしない。仕方がないので点けられる電気はみんな点けて、ついでに見たくもないテレビまで点けてみるが、まだ暗い。こういう不満がわいてくるのは、むろん一人旅のときである。暗いから、いよいよ一人旅の侘びしさはつのってしまう。人間とは妙なもので、こういうときには、なんとなく窓を開けてみたりする。表にはボオッと水銀灯(もどき)が灯っていたりするけれど、ほとんど何も見えないことくらい、あらかじめ承知している。だけど、開けてみたくなる。開けてみて、あちこち見回したりする。なんにも見えっこないのにね。で、ここからが句のテーマ。外の様子は見えないが、四季それぞれの季節感は流れ込んでくる。春夏秋冬、窓を開ければその土地ならではの自然の「気」が風に乗ってくる。揚句では、そんな早春の「気」をつかまえたつもり。やがてはむせ返るような若葉の季節への予兆が、ここにある。そう思うと、やはり「芽吹き」は「切々」でなければなるまい。窓を閉めて薄暗い燈火の下に戻ると、ますますその感は深くなる。生命賛歌であると同時に、晩年に近いであろう自分の感傷的な切なさとを、それこそ「切々」と重ね合わせてみた次第。しょせん人生なんて「一人旅さ」の、つもりでもある。最近は、年間二百句ほど作っている。「自薦句」にしてはいやに古風なのだけれど、最新句なので、あえてお目汚しは承知の上で……。(清水哲男)


February 1622001

 菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか

                           櫂未知子

村暮鳥の「いちめんのなのはな」ではないが、古来「菜の花」は黄金世界のかたまりとして捉えられ好まれてきた。揚句では、なかの二三本をいわばズーム・アップしていて、そこにまず新しさがある。そして「見捨てる」という強い表現に、私は魅力を覚えた。「見捨てる」は「見て放っておく」ことではあるが、単に「見過ごす」のではない。相手の状態がどうであれ、たとえ人が眼前で溺れていようとも、我には関わりなきものと冷たく「見放す」のだ。ところがこの場合には、相手が「菜の花」だから、べつに助けを求めているわけでもないし、作者に何かを訴えているわけでもない。それを承知で、作者はあえて「見捨てるか」とつぶやいてみた。つまり、作者は相手に対して手前勝手なことを言っている。「見捨て」られた側は何も感じない理屈であり、そこに揚句の滑稽がにじみ出てくる。手前勝手に力み返っている面白さだ。もっと言えば、はじめからいちゃもんをつける気分で「菜の花」に対しているかのようでもある。でも不思議なのは、読後感にどこか作者の「颯爽(さっそう)」たる勢いが残るところだ。理屈では空回りしている句なのに、何故だろうか。この句は、岡田史乃の俳誌「篠(すず)」(第99号・2001)で知った。そこで史乃さんは「(従来の花を大切にというような)心をかなぐりすてて『菜の花』へ正面衝突している」と書いている。たしかに、そういうふうにも読める。尻馬に乗って付け加えれば、断定的な物言いの出来がたい現代にあって、空回りであれ何であれ(そんな思いはかなぐりすてて)、きっぱりと「見捨てるか」と言い放ったこと、それ自体に私は「颯爽」を感じているのかもしれない。そう考えると、なかなかに厄介な句だ。ところで「菜の花」には「菊の花」などと同じように、食用とそうでない品種とがある。見分けのつかない(だから、この句ができた)作者は、どうしたろうか。まさか「茹で」たりしなかったでしょうね。わからないときには、さっさと「見捨てる」がよろしい(笑)。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


February 1722001

 ときをりの水のささやき猫柳

                           中村汀女

かい地方では、もう咲いているだろう。山陰で暮らしていた子供のころには、終業式間近に開花した。まだ、ひと月ほど先のことだ。「猫柳」は一名「かわやなぎ」とも言うように、川辺に自生する。咲きはじめると、川辺がずうっとどこまでもけむるように見え、子供心にも一種の陶酔感が芽生えた。川(というよりも、小川)は重要な遊び場だったので、猫柳はその遊び場が戻ってくる先触れの花であり、そんな嬉しさも手伝ってきれいに見えたのかもしれない。どなたもご存知の文部省唱歌「春の小川」(高野辰之作詞)は、フィクションなんかじゃなかった。とくに二番の「……えびやめだかや 小ぶなの群れに きょうも一日 ひなたでおよぎ」あたりは、現場レポートそのものである。咲き初めた「猫柳」をかきわけて、小川をのぞきこむ。と、いるいる。「えびやめだか」たちが。まだ水は冷たいので入りはしないけれど、のぞきこみながら、何だかとても嬉しい気分になったものだ。揚句の作者は大人だから、私のようにのぞきこんだりはしていない。川沿いの道を、猫柳を楽しみながら歩いている。歩いていると、ときおり「水のささやき」が聞こえてくる。ただそれだけの句であるが、情景を知る者には、なんと美しく的確に響いてくることだろう。作家の永井龍男が戦争中に、いかに「汀女の句になぐさめられたことか」と書いている。わかるような気がする。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


February 1822001

 ひとり旋る賽の河原の風ぐるま

                           千代田葛彦

の知るかぎり、最も不気味にして印象的な風車の句。ご承知のように「賽(さい)の河原」は、死んだ幼な子がもっとも辛酸をなめさせられる場所だ。父母の供養のために石を積んで塔を作ろうとしていると、鬼が現われては壊してしまう。そんな苦しみの河原に、子供の大好きな玩具である風車が「ひとり旋(まわ)」っているというのである。「廻る」や「回る」ではなく「旋る」という字をあてたのは、「旋風(つむじかぜ・せんぷう)」の連想から、猛烈な風の勢いのなかでの回転を表現したのだろう。あの河原には、常に寒風が吹きあげている。春のそよ風に廻る風車には優しい風情があるけれど、揚句のそれはひたすら非情に回転しつづけているばかり。私のイメージでは、この風車は巨大なもので、しかも虚空に浮かんでおり、回転速度がはやいために色彩は灰色にしか見えない。「旋る」音も軽快な感じではなく、吹き上げる強風に悲鳴をあげているような……。こんなふうに想像を伸ばしていくと、どんどん怖くなりそうなので止めておくが、とにかく「賽の河原」に「風車」を持っていくとは、度肝を抜かれる発想だ。脱帽ものである。口直しに(笑)、三好達治の一句を。「街角の風を売るなり風車」。なんて詩人はやさしいんだろう。『合本・俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1922001

 天心にして脇見せり春の雁

                           永田耕衣

ろそろ、雁(かり)たちが北方に帰っていく季節である。季語「春の雁」は、北へと帰りはじめようとする雁のことを言う。だんだん、姿を消していく雁たち……。明るい春と別れの淋しさとを同時につかまえた季語で、人間界になぞらえれば「卒業」などに近い情趣がある。おそらく、日本語独特の表現だろう。よい季語だ。ちなみに「残る雁」の季語もあって、こちらは病気や怪我のためか、とにかく帰れない雁にわびしさを見た季語である。揚句は、帰るために、もう後戻りのできない「天心(中天)」にまで至っている雁の一羽が、ひょいと脇見をした様子を描いている。作者は、私たちが何となく想像している雁の北帰行の常識的なイメージを、それこそひょいとからかっているのだ。雁たちが一直線に真一文字に、ひたすら「天心(すなわち天子のような心持ち)」で北を目指しているというのが、おおかたのイメージだろう。もとより作者だとて、実際の飛行の様子は知らないわけだが、なかにはきっと「脇見」する奴だっているにちがいないと思った、そこがミソ。「脇見」は心の余裕の産物でもあるが、他方では「不安」のそれでもある。句では、後者と捉えたほうが面白い。ぱあっと北を目指して意気高く飛び上がったまではよいけれど、本当に「これでよかったのだろうか」と、周囲の仲間の表情を盗み見している図。言わでものことだけれど、揚句はたぶんに人間界への皮肉が意識されている。『吹毛集』(1955)所収。ちなみに「吹毛(すいもう)」とは「あらさがし」の意。(清水哲男)


February 2022001

 眠る山薄目して蛾を生みつげり

                           堀口星眠

語は「眠る山(山眠る)」で冬季だが、冬の間は眠っていた山が目覚めかけて「薄目して」いるのだから早春の句だ。山のたくましい生産力を描いて妙。早春の山というと、私などはすぐに木々の芽吹きに気持ちがいってしまうけれど、それでは凡に落ちる。当たり前に過ぎる。というよりも、山を深くみつめていないことになる。山は、我々の想像以上に多産なのだ。植物も生むが、動物も生む。もちろん「蛾」も生むわけだが、ここで「蛾」を登場させたところが素晴らしい。「蝶」ではなくて「蛾」。「蝶」でも悪くはないし、現実的には生んでいるのだが、やはり「薄目して」いる山には、地味な「蛾」のほうがよほど釣り合う。「蝶」であれば、「薄目」どころかはっきりと両眼を見開いていないと似合わない。「薄目」しながら、半分眠っている山が、ふわあっふわあっと、幼い「蛾」を里に向けてひそやかにかつ大量に吹きつづけているイメージは手堅くも鮮やかである。「蛾」の苦手な人には辛抱たまらない句だとは思うが、それはまた別次元での話だ。大岡信さんが新著『百人百句』(講談社)で、書いている。「星眠は、自然界の描写という点では師匠の水原秋桜子直伝のよさがあり、秋桜子が『葛飾』で水辺の世界をよく描いているのに対して、山の生物を描いているところに特色がある」。私のような山の子は、どうしても秋桜子より星眠に親近感を覚えてしまう。『祇園祭』(1992)所収。(清水哲男)


February 2122001

 春服の人ひとり居りやはり春

                           林 翔

の上では春となったが、まだ吹く風も冷たい。たいていの人が冬服のままでいるというのに、ひとりだけ「春服」を着ている人がいる。街中でちらりと見かけたのではなく、会合か何かの場所での作句だろう。「居り」という語が、作者がその人を認めている時間の長さを示しているからだ。地味な冬服に囲まれた明るく軽快な感じの「春服」一点なので、ずいぶんと目立つ。ましてや、女性であればなおさらに際立つ。もちろん男女いずれでもよいわけだが、作者はそんな「ひとり」を見やりつつ、「やはり春」なんだなと嬉しい気分になった。「やはり春」と自己納得したときに、心のうちにポッと明るいものが灯った。「でも、あの人、寒くないのかなあ……」。ところで、篠原梵に「人皆の春服のわれ見るごとし」がある。ちょうど、揚句に詠まれた人が詠んだような句だ。春めいてきたので、浮き浮きとした気分で春服を着て街に出てみたら、まだ「人皆」は冬服だった。じろじろと見られているようで、なんだか恥ずかしい。こういうときは、本人が意識するほど他人は見てはいないというが、いややっぱり、揚句の作者のように見ている人は見ているのだ。ただし、こうした感性は昔の人のそれであって、いまの若い人にはほとんど通じないかもしれない。なお「春服」はむろん春の季語だが、「春着」は晴着に通じ新年の季語に分類されている。念のため。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)


February 2222001

 兵舎の黒人バナナ争う春の午後

                           島津 亮

が世に連れるように、俳句も世に連れる。揚句を理解するには、戦後の疲弊した日本社会に心を移して読まなければならない。「兵舎」には「きゃんぷ」の振り仮名。春の午後に、基地の兵舎で、黒人兵たちがふざけ半分にバナナを争っている。ただそれだけの図であるが、作者はただそれだけのことに呆然としていると言うのだ。何故の呆然か。一つには、進駐してきたアメリカ兵たちが、日本の兵士たちに比べてあまりにも明るく開放的であったことへの衝撃がある。とくに黒人兵たちは目立ったこともあり、とてつもなく陽気に見えた。兵舎での食べ物の取り合いくらいは、日常茶飯事という印象だ。日本の軍隊では考えられない光景である。そして彼らのこの陽気は、同時に治外法権者の特権にも通じていると写り、敗戦国民にはまぶしいような存在だった。もう一つには、困難を極めた食糧事情の問題がある。バナナやパイナップルなどは高価で、そう簡単には庶民の口には入らなかった。それをごく普通の食べ物として、平気で取り合っている……。呆然とせざるを得ないではないか。「春の午後」は、さながら天国のような基地の兵舎の雰囲気を象徴した言葉として読める。前衛俳句の旗手として活躍した島津亮にしては大人しい句だが、あの頃を知る読者には、今でもひどく切なく響いてくるだろう。羨まず嫉まず怒らず、ただ呆然とするのみの世界が同じ地上に近接していたのだ。もう一句。「びくともせぬ馬占領都市に花火爆ぜる」。人間よりも馬のほうが、よほど性根がすわっていた。『記録』所収。(清水哲男)


February 2322001

 煙草屋の娘うつくしき柳かな

                           寺田寅彦

いした句ではないけれど、たまには肩の凝らない句もいいものだ。「うつくしき」は「娘」と「柳」両方にかけてある(くらいは、誰にでもわかるけど)。この娘さん、きっと柳腰の美人だったのだろう。その昔の流行歌に「♪向こう横丁の煙草屋の可愛い看板娘……」とあるように、なぜか(失礼)煙草屋の娘には美人が多かった。というよりも、実際はなかなか若い娘と口を聞く機会がなかった時代だから、客としておおっぴらに話のできた煙草屋の娘がモテたと見るべきだろう(またまた失礼)。芽吹いてきた柳は、うっとりするほど美しい。したがって、春の季語となった。かの寺田寅彦センセイから、揚句の娘さんは柳と同じように「うつくしき」と詠んでもらったわけで、曰く「もって瞑すべし」とはこのことだ。それがいまや、煙草屋から看板娘が消えたのもとっくのとうの昔のことで、さらには煙草屋の数も激減してしまい、自動販売機が不愉快そうにぼそっと突っ立っているばかり。とくれば、世に禁煙者が増殖しつづけているのも当たり前の成り行きか。ところで一方の柳だが、さすがに美しさを愛でた句は多いのだけれど、なかには其角のように「曲れるをまげてまがらぬ柳かな」と、その性に強情を見る「へそ曲がり」もいた。極め付けは、サトウ・ハチローの親父さんである作家・佐藤紅緑が詠んだ「首縊る枝振もなき柳かな」かな。でも、こんなに言われても、柳は上品だからして「だから、なんだってんだよオ」などと、そんな下卑た口はきかないのである。柳に風と受け流すだけ。(清水哲男)


February 2422001

 春の波見て献立のきまりけり

                           大木あまり

者がいるのは海辺だろうか、それとも川や池の畔だろうか。のどかな波の様子を眺めている。「ひらかなの柔らかさもて春の波」(富安風生)。見ているうちに、はたと「献立」を思いつき、それに決めた。「献立」の中身は何も書いてないけれど、どんな料理かをちょっと知りたくなる。想像するのは楽しいが、案外「春の波」のイメージとは遠くかけ離れた献立かもしれない。えてして「思いつき」は、思いがけないきっかけから生まれ、とんでもない方向に飛んでいく。揚句のテーマは、むろん献立の中身などではない。「きまりけり」の安心感、ほっとした気持ちそのことにある。こういう句を、昔の男はいささか差別的に「台所俳句」と称したが、台所にこそ俳句の素材がぎっしり詰まっていることを、浅薄にも見逃していたわけだ。反対に、たとえば画家は洋の東西を問わず、早くから台所に注目していた。私自身も、詩のテーマや素材に困ると、いまだに台所を見回す。料理の素材である野菜や魚、道具である鍋やフライパンの出てくる詩を、いくつ書いたか知れないほどだ。ただ私のように日常的に献立を考えない人間は、素材や道具には目が行き想像力を働かせても、揚句のような気持ちに届くことは適わない。作者は台所を、いわば戸外に持ちだしているのであり、つまり台所を自身に内蔵しているのでもあって、ここに私との大きな差がある。それにしても、主婦(とは限らぬが)の三度三度の「思いつき」能力には感心する。そこらへんのプロよりも、はるかに凄い。プロは答えの見えたジグソー・パズルを組むだけでよいのだが、主婦はそのたびに白紙に絵を描いていくのだから。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


February 2522001

 蒼白な火事跡の靴下蝶発てり

                           赤尾兜子

つう「蝶発(た)てり」といえば、明るい希望や期待の心などを象徴するが、揚句の蝶の姿はあくまでも暗い。火事場に残された焼け焦げて汚れた靴下のように「蒼白な」蝶が、ふらふらっと哀れにも舞い上がったところと読む。それでなくとも暗い蒼白な「火事跡」に、追い討ちをかけるようにして蝶の暗い飛翔ぶりを足している。「これでもか」と言わんばかりだ。このとき、読者には少しの救いも感じられない。やりきれぬ。このような感受性や叙情性は、詩人で言えば萩原朔太郎のそれに近いだろう。極端に研ぎ澄まされた神経が、ことごとく世間一般の向日性と摩擦を生じてしまうのだ。作者は新聞記者だったから、結局はどこかで世間との折り合いをつけなければならぬ職業であり、かといってみずからの感受性を放擲するわけにもいかず、そこで「蒼白」になりながら俳句を書いていたのだと、これは私の偏見かもしれないが……。でも、兜子はなぜ死ぬ(自殺・1981)まで俳句に執着したのだろうか。私の長年の素朴な疑問だ。揚句一句だけからでもわかるが、この程度の中身ならば詩ではむしろ凡庸なレベルにダウンする。逆に言えば、俳句に執着したがために、この内容で止まってしまったと言うべきか。詩で言えることを、無理に俳句で言おうとしているとしか思えない。だったら、俳句でないほうがよかったのではないか。なぜ俳句だったのか。その意味で、兜子にかぎらず、私がハテナと思う「俳人」は少なくない。眺めていて、詩の書き手は比較的俳句や短歌を読むが、ほとんどの俳人は詩を読まないようだ。関係がありそうな気がする。『虚像』(1965)所収。(清水哲男)


February 2622001

 春寒に入れり迷路に又入れり

                           相生垣瓜人

句。相生垣瓜人(あいおいがき・かじん)は、洒脱な俳風で知られた人。1985年(昭和六十年)二月に、米寿で亡くなっている。「三寒四温」とは冬の季語だが、二月如月の季節は気温が高くなったり低くなったりと、さながら「迷路」のように温度に消長がある。そんな消長を繰り返しながら季節は本格的な春へと赴くわけだが、揚句の「迷路」の実感は自身の病状と、それに伴う心情にかけられているのだろう。身体の状態がまさに「三寒四温」のように一進一退を繰り返し、ここにきて「又」寒くなってきた。この「迷路」は遊園地などの人工的なそれではないから、無事に抜け出られるかどうかはわからない。天然自然の「迷路」に入り込んで、さて、オレには「又」暖かい春が来るのか来ないのか。過去には何度も「春寒」の危機を脱していることがあるので、なおさら「又」に象徴される心情は複雑だ。「米寿」といえば八十八歳。これくらいまで生きると、世間ではよく「天寿を全うした」などと言いあいながら、葬式もしめっぽくならない例が多い。そんな言い草に腹を立て、「死んだこともないくせに『天寿を全うした』などと、よくもヌケヌケと言えるものだ」と言ったのは、米寿にははるかに及ばぬ年令で亡くなった詩人の北村太郎であった。死ぬ当人にしてみれば、ついに「迷路」から脱出がかなわなかったという残念があるかもしれぬのだから。俳誌「馬酔木」〈1985年4月号〉所載。(清水哲男)


February 2722001

 灰となる椅子の残像異動期過ぐ

                           穴井 太

くの職場では、人事異動の季節。実際に動くのは四月だとしても、労働契約にしたがって、少なくとも一ヶ月前までには内示がある。いまの「椅子」から動きたい人、動きたくない人、さまざまだ。作者は中学教師だった。人事異動には昇進も含まれるが、この場合は転勤だろう。作者は動きたくなかった。だが、異動には頃合いというものがあり、そろそろ動かされても仕方がない立場ではあった。いつ内示があるかと、毎日びくびくしている。教師の世界は知らないが、異動を言い渡す役目は校長だろうか。だとすれば、校長の一挙手一投足までが気になる。うなされて、自分の「椅子」が灰になる夢を何度も見る。しかし結局は何ごともなく二月が過ぎていき、ようやく安堵の胸をなで下ろしたところだ。が、なで下ろしながらも、「灰となる椅子の残像」は見えている。よほど神経的にまいってしまっているのだ。この「残像」に思い当たるサラリーマンは多いだろう。穴井太には「風になった男」という小さな山頭火論があって、風まかせに歩いた自由律俳人の生き方に目を見張っている。見張ってはいるものの、とうてい山頭火のようには生きられぬのが自分の器量であり宿命でもある。このときに「春の雲おれの居場所は段畑」と詠んだ穴井太の心情は、切なくも読者の胸奥にしみ入ってくる。たしかに山の「段畑」は、ささくれた神経を解きほぐしてくれる最高の「居場所」にはちがいないが、作者がここから風となって遠くに吹いていくことは、ついにできないのだから。山を下りれば、そこには「椅子」があるのだから。『穴井太集』(1967)所収。(清水哲男)


February 2822001

 如月も尽きたる富士の疲れかな

                           中村苑子

季の富士山は積雪量が多く、ことのほか秀麗な姿を見せているそうだ。私の住む三鷹市あたりからも昔はよく見えたようだが、いまは簡単には見えなくなった。近くの練馬区富士見丘(!)からも、見えなくなって久しい。それはともかく、ご承知のように、季語には山を擬人化した「山眠る」「山笑ふ」がある。卓抜な見立てだが、しかし同じ山でも、富士山だけには不向きだなと、掲句を読んで気がついた。冬の間の富士山は、どう見ても眠っているとは思えない。むしろ、眼光炯々として周囲を睥睨しているかのようだ。肩ひじも張っている。だから、寒気の厳しい「如月」が終わるころともなると、さすがに疲れちゃうのである。春霞がかかってきて、いささかぼおっとした風情を見て、作者はそう感じたのだ。この感覚は、寒い時季をがんばって乗りきってきた人間の「疲れ」にも通じるだろう。「疲れ」からとろとろと睡魔に引き込まれていくかのような富士山の姿はほほ笑ましくもあるが、どこかいとおしくも痛ましい。「疲れ」という表現には、微笑に傾かずに痛ましさに傾斜した作者の気持ちがこめられているのだ。言わでものことだが、痛ましいと思う気持ちは愛情に発している。作者は、今年一月五日に亡くなった。享年八十七歳。振り返ってみれば、中村苑子は徹底して痛ましさを詠みつづけた希有の俳人であったと思う。しかも、自己には厳しく他には優しく……。このことについては、折に触れて書いていきたい。「凧なにもて死なむあがるべし」。「凧」は「たこ」と読まずに、この場合は「いかのぼり」と読む。新年ではなく春の季語。『水妖詞館』(1975)所収。(清水哲男)




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