一月も終わり。光陰矢の如し。この言葉は誰が言いだしたのでしょうか。若者ではないと思いたい。




2001年1結蛛i前日までの二句を含む)

January 3112001

 ガラス玉これ雪女の義眼です

                           橋本 薫

怪だとかお化けだとかの句には、作者固有の想像世界が具体的に表れていて面白い。実に、人さまざまである。昔から「雪女(雪女郎)」の句はたくさんあるが、「義眼」との取り合わせのものははじめて読んだ。極めて新しいスタイルの「雪女」の出現である。とりあえず、乾杯(笑)。なにせ相手は妖怪なのだから、この取り合わせが上手に効いているのかどうかは、判断がつかない。とすると、眼鏡をかけた「雪女」もいるのかなと、しばし楽しい空想に耽った。でも、眼鏡じゃ、そんなに恐ろしくはないな。「ガラス玉」とは、ビー玉みたいなものだろうか。作者はおそらく雪道に落ちている「ガラス玉」を見つけて、とっさに「雪女」を連想したのだろう。つまり、人を驚かす「雪女」のほうが逆に何かに驚いて慌てふためき、迂闊にも落としていったのだ。そう思うと、なんとなく気の毒でもあり、可笑しくもある。「雪女」伝承には地方によりいろいろあって、まずは若い女だ、いや老婆だと、年齢からして相当に開きがある。顔を見ると祟(たた)られるという地方もあるし、断崖などで後ろから突き飛ばすという物騒なのが出てくる土地もある。もちろん幻想だが、なかには幻想の正体を突き止めた人もいて、「錦鯉は夜がくるまでの雪女」と、詩人の尾崎喜八が自信満々に詠んでいる。私のイメージからすると、だいぶ違う。が、そこはそれ妖怪相手なのだから、違うと言い切れる根拠は何もない。今回少し調べたなかで、かなりゾッとしたのは次の句だ。「聖堂の固き扉に泣く雪をんな」(佐野まもる)。このすすり泣きは怖いぞ。『夏の庭』(1999)。(清水哲男)


January 3012001

 冬帽子かむりて勝負つきにけり

                           大串 章

の「勝負」かは、わからない。将棋や囲碁の類かもしれないが、いわゆる勝負事とは別の次元で読んでみる。精神的な勝負。口角泡を飛ばしての言い争いというのでもなく、もっと静かで深い心理的な勝負だ。ひょっとすると、相手は勝負とも感じていないかもしれぬ微妙な神経戦……。とにかく、作者は表に出るべく帽子をかむった。独りになりたかった。負けたのだ。それも、勝負がついたから帽子をかむったのではない。帽子をかむったことで、おのずから勝負がついたことになった。「もう帰るのか」「うん、ちょっと……」。そんな案配である。そしてこのとき「冬帽子」の「冬」には、必然性がある。作者の心情の冷えを表現しているわけで、かむると暖かい帽子ゆえに、かえって冷えが身にしみるのだ。この後で、寒い表に出た作者はどうしたろうか。揚句には、そんなことまでを思わせる力がある。見かけは何の変哲もないような句だが、なかなかどうして鋭いものだ。ところで、俗に「シャッポを脱ぐ」と言う。完敗を認める比喩として使われるが、こちらは素直で明るい敗北だ。相手の能力に対する驚愕と敬意とが込められている。どう取り組んでみても、とてもかなわない相手なのである。逆に、揚句の敗北は暗く淋しくみじめだ。帽子を脱ぐとかむるの違いで、このようにくっきりと明暗のわかれるところも面白いと思ったと、これはもちろん蛇足なり。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


January 2912001

 受験生呼びあひて坂下りゆく

                           廣瀬直人

者は、高校の国語科教師だった。入学試験が無事に終わって、ほっとした気分で職員室から眺めた情景だ。三々五々校舎から出てきた受験生たちが、友だちを呼びあいながら、坂をくだって帰っていく。例年のことだが、作者はその一人ひとりの心細い胸の内を察して、みんなに合格してほしいという気持ちになっている。ああやって友だちを呼びあうことで、精いっぱい心細さをふっ切って帰っていく子供たちのなかで、四月から毎日この坂をのぼってくる子もいれば、そうでない子もいる。ちらりとそんな思いも去来して、受験生たちを見送っている。「坂下りゆく」は実景そのままではあるけれど、ついにこの坂とは無縁になるであろう受験生のほうに気持ちが傾いている表現でもあるだろう。人の情に溢れた句だ。入学試験制度の是非はいつの時代にも問われ、いまも論議はつづいている。しかし、どのような論議や改変が行われようとも、受験生にしてみれば、またその家族にしてみれば、論議や改変のプロセスのなかにある一つの時代的試行が「絶対の壁」となる。こうしてくれ、ああしてほしいなどは、通用しない。なんとしても、この理不尽を乗り越えなければならないのだ。宮沢賢治の口真似をしておけば、どうにも動かせない「真っ暗な大きな壁」として、制度は屹立するのである。この「絶対の壁」の屹立があって、揚句の味わいがある。ところで、中国で「鬼才」といえば夭折した詩人の李賀ひとりを指すに決まっているが(ちなみに「天才」といえば李白のこと)、彼は受験する以前に科挙のチャンスを唐朝から拒絶された。これまた「絶対の壁」であり、絵に描いたような制度の理不尽にはばまれた。出世を期待していた家族のもとにおめおめと舞い戻ったときの詩の一節に、「人間(じんかん)底事(なにごと)か無からん」とある。この世の中の(不快な)仕組みは、底なしの泥沼みたいじゃないか。鬼才にして、このうめき……。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます