局の機械に再インストールの必要もシリアル番号を紛失。電話したらケンもホロロ。その会社名…。




2001ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612001

 わが過去に角帽ありてスキーなし

                           森田 峠

さに自画像を見る思い。といっても、作者は学徒動員世代だから「スキーなし」の環境は私などの世代とは大いに異なる。戦争中で、スキーどころではなかったのだ。私が大学に入ったのは、戦後も十三年目の1958年。しかし日本全体はまだ貧乏だったので、スキーに行けたのは、かなり裕福な家庭の子女だけだった。大学には一応戦前からのスキー部はあったが、部員もちらほら。同級生に羽振りのよかった材木屋の息子がいて、高校時代からスキーをやっていたという理由だけから、いきなりジャンプをやれと先輩から命令され、冗談じゃねえと止めてしまった。入学すると、とりあえずは嬉しそうに「角帽」をかぶった時代で、そんな戦前の気風をかろうじて体験できた世代に属している。だから、表層的な意味でしかないけれど、作者の気持ちとは共通するものがある。そんなこんなで、ついにちゃんとしたスキーをはかないままに、わが人生は終わりとなるだろう。べつに、口惜しくはない。ただ、もう一度はいて滑ってみたいのは、子供の頃に遊んだ「山スキー」だ。太い孟宗竹を適当な長さに切り、囲炉裏の火に焙って先端を曲げただけの単純なものである。ストックがないので、曲げた先端部分をつかんで滑る。雪ぞりの底につける滑り板の先端部分を、もう少し長くした形状だった。深い雪で休校になると、朝から夕暮れまで、飽きもせずに滑った。むろん何度も転倒するので、服はびしょびしょだ。服などは詰襟一つしかないから、夜乾かすのに母が大変苦労したようである。乾かなければ、明日学校に着ていくものがないのだから……。揚句の受け止め方には、いろいろあるはずだが、その受け止めようにくっきりと表れるのは、世代の差というものであるだろう。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1512001

 雪降りつもる電話魔は寝ている

                           辻貨物船

夜、しんしんと冷え込んできた。表は雪だ。雪国育ちとは違って、作者のような東京の下町っ子は、たまに積もるほどの雪が降ると興奮する。嬉しくなる。といって、子供のようにはしゃぐわけではない。はしゃぎたい気持ちを抑えて、静かに瞑目するように雪の気配をいつまでも楽しむのだ。当然、お銚子一本くらいはついているだろう。この静かな雰囲気をぶち壊す者がいるとすれば、娘だろうか、とにかく話しだしたら止まらない「電話魔」だ。日ごろでも、うるさくてかなわない。そのことにふっと思いがいたり、幸いにも「寝ている」なと安堵している。雪の夜の静寂を詠んだ句は数あれど、こんなに奇抜な発想によるものは見たことがない。一読吹き出したが、たしかに言い得て妙だ。そしてこの妙は、単に雪の夜の静謐を表現しているばかりではなく、寝ている「電話魔」を含めての家族の平穏なありようにまで届いている。そこが、揚句の魅力なのである。詩人・辻征夫の暖かくも鋭い感受性の所産だ。ところで雪の夜の静寂を描いた詩では、三好達治の「雪」が有名だ。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」。数年前にある大学の教室で解釈させたら、かなりの数の学生が「眠らせ」を「殺して」と説明したそうだ。新聞で読んだ。吹き出すよりも、「電話魔」世代の荒涼たる言語感覚をいたましく思った。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


January 1412001

 寒燈といへどラジオを点すのみ

                           永井龍男

戦間近の句。夜間、敵機来襲の警戒警報か空襲警報が発令されたのだろう。灯火管制下なので、家の中の電灯はみんな消した。上空の敵に、灯火をターゲットにさせないためだ。だから、暗闇のなかで小さくぼおっと点っているのは、ラジオの目盛りの窓だけである。寒さも寒し。それでなくとも冬の燈は侘びしいのに、ラジオの燈だけとは実に侘びしい。いつ爆弾が降ってくるかもしれぬ状況なのだが、こんな思いもわいてくるのは、空襲慣れのせいだと言える。おそろしいもので、人は命の危険にも、あまりにさらされつづけると慣れてしまう。最初のパニック状態を、いつしか忘れてしまうのだ。ラジオだけは消さなかったのは、むろん情報を得るためである。後にほとんどが嘘八百の情報だったと知ることになるのだが、当時の人々は、情報をラジオに頼るしか手段がなかった(いまの大災害時でも、似たようなものだけれど……)。だから、どこの家でも一日中ラジオはつけっぱなしだった。聴取率は、限りなく百パーセントに近かったろう。庭先の防空壕に避難するときは、室内からコードを延ばせるだけ延ばし、ボリュウムをいっぱいに上げて耳を澄ませた。真っ暗やみの町内に、警報のサイレンとラジオの音だけが響いていた。そしていよいよ敵機来襲ともなれば、上空には煌々とサーチライトが交錯し、ときどき周辺に照明弾が落とされて、真昼のように明るくなる。爆弾(ほとんどが焼夷弾)が投下されはじめると、民家からあがる火の手も凄いが、伴う煙のほうがもっと凄くて苦しい。生まれてはじめて「死ぬ」と思ったのは、そのとき、五歳のときだった。そんな「日常」のなかから偶然にも生き残り、早朝の寒燈の下で、こんなことを書いている不思議。『文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)




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